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千葉地方裁判所 昭和32年(ワ)242号 判決

原告 山本茂

被告 株式会社毎日新聞社

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、

一、被告は原告に対し、金五〇〇万円及びこれに対する昭和三二年一一月五日以降右支払済に至る迄年五分の割合による金員を支払え。

二、被告は、その発行にかかる毎日新聞朝刊千葉版に別紙第一記載の記事を、同夕刊社会面に別紙第二記載の記事を、サンデー毎日に別紙第三記載の記事を各一回づつ右各別紙に記載の方法をもつて掲載せよ。

三、被告が本判決確定後毎日新聞については一週間以内に、又サンデー毎日については二週間以内に、前項の各記事を掲載しなかつたときは、その掲載義務を怠つたものにつき、各金三〇万円を支払え。

四、訴訟費用は被告の負担とする。

との判決並びに金員の支払を命ずる部分につき、仮執行の宣言を求め、その請求原因として、

一、被告会社は新聞紙等の発行・出版等を事業目的として設立された法人で、現に日刊新聞である「毎日新聞」及び週刊雑誌「サンデー毎日」を発行・販売しているものである。

二、ところで被告会社は、

(一)、昭和三一年二月二六日、その発行する毎日新聞同日付朝刊第二八六五九号第七面中央上部(全国版)に、「暴力の町手入れ」(以上特号、三段)、「きよう千葉・大多喜潤組に」(以上一号、三段)なる大見出しをつけ、更に「君塚功さんの土地に建てた問題の家」という添書をつけた横八糎、二段の写真を掲げた別紙第四の一記載の記事を、又同紙千葉版中央三段から六段にかけて、「″オレが法律″の潤組」(以上特号、四段)、「明るみに出た大多喜の暴力団」(以上一号G、四段)、「警察もみてみぬふりか」(以上初号、四段)なる大見出し、及び「サツは平気とタンカ」(以上一号G、二段)なる中見出しを付した別紙第四の二記載の記事を、

(二)、前同日、同じく毎日新聞同日付夕刊第二八六六〇号第三面トツプに、「千葉の暴力の巣手入れ」(以上巾一八粍、五段地紋に特号G白抜き)、「幹部四名捕う」(以上〇号、四段)、「『力』で町を支配する潤間組」(以上初号四段)なる大見出し、及び「町はホツとした表情」(以上初号、三段)、「容疑の一例」(以上二号、一段)「警察ともなれあい」(以上一号G、二段)なる中見出しを付し、更に「平田宅を家宅捜索する警官隊」という添書をつけた横七糎、三段の写真を掲げた別紙第五記載の記事を、

(三)、同年同月二七日、同じく毎日新聞同日付朝刊第二八六六一号千葉版トツプ面に、「明るみにでた西畑の暴力」(以上巾一八粍、四段地紋に初号G抜き)、「廃人にされたカジ屋」(以上特号、四段)、「″占領″されてきた中野駅」(以上初号四段)なる大見出しを付し、更に「恐怖を語る」という添書をつけた横三糎、縦四糎の写真二枚及び横六糎、一段の写真一枚を掲げた別紙第六記載の記事を、

(四)、同年六月六日、同じく毎日新聞同日付朝刊第二八七六〇号千葉版トツプ面に、「地検と警察の対立えぐる」(以上巾一八粍、一三・五糎地紋に初号白抜き)、「大多喜の暴力事件」(以上一号G)なる横見出し、「合同捜査の立消え」(以上〇号、四段)、「″軽卒だ″″なつていない″と応酬」(以上初号G、四段)なる大見出し、及び「幹部平田を逮捕」、「お礼参り実例」(以上二号G、一段)なる中見出しを付した別紙第七記載の記事を、

(五)、更に同年三月一八日付、被告発行の週間雑誌「サンデー毎日」通巻第一九二五号(同年三月一八日号)の第二二頁から第二三頁にわたり、「″オレが法律だ″の二十年」(以上初号G、三段)、「無法男に泣かされた大多喜町」(以上一号、三段)なる大見出し、及び「流れ者の人夫頭」、「傍若無人の潤間組」、「悪事の数々暴露す」、「うれし泣きの町民」(以上四号G、一段)の中見出しを付し、更に横七糎、縦五・五糎及び横七・五糎縦四・八糎の写真を掲げた別紙第八記載の記事を、

それぞれ掲載して、これを不特定多数の読者に販売・閲読させた。

三、ところで右各記事は、被告会社千葉支局勤務の取材記者道村博、宍倉靖、白木東洋の三名が取材して作成した原稿に基き、これを被告会社の編集担当者が編集したものであるが、右はいずれも原告が山本一家なる暴力団組織をもち、その力をもつて町を支配し、かつ賭博を常習とし、原告がその親分となつていたことを中心として記述されているが、これは全く事実無根のことである。すなわち、

(一)、別紙第四の一記載の記事中、

(1)、平田四郎こと全命祚及び植草繁夫の両名が原告の代貸であるとの記載

(2)、原告が一〇数年間暴力によつて一つの村(人口五〇〇〇名)を完全に支配し、警察もその″私兵化″されているという事実が判明したとの記載

(3)、原告が子分五〇余名を持つ潤間組を組織しているとの記載

(4)、原告が博徒植草繁夫をはじめ、博徒や前科者を引入れ、平田四郎を代貸に隠然たる勢力を張つているとの記載

(5)、原告が町議二名、前村議五名などの有力者をかかえ、営業の妨害、財産の横領などのほか、町当局や駅、消防などにも暴力をふるつて干渉、千葉地検の捜査により現在までに判明したものだけでも詐欺事件三件(公正証書不実記載を含む)、窃盗三件、強盗傷人四件、傷害六件、恐かつ脅迫二八件を数えているとの記載

(6)、原告が地元警察となれあい、無警察状態となり、町民から″潤間の親分″と恐れられていたと記載

(7)、「財産侵奪の一例」及び「警察との結びつき」〈1〉〈2〉の標題の下に記載されている部分の記事全部

(二)、別紙第四の二記載の記事全部

(三)、同第五記載の記事中、昭和三一年二月二六日、原告の自宅及び事務所の捜索があり、書類・物件等が押収され、山本進、七五三野秀、山本良、植草繁夫の四名が逮捕状を執行され、一たん大多喜署に拘置後、千葉刑務所に収容された、との点を除くその余の記載全部、(捜索及び逮捕状執行の模様も事実に反し誇大であつてこれを含む)

(四)、同第六記載の記事全部

(五)、同第八記載の記事中

(1)、原告が子分五〇余名をようする潤間組を組織しているとのこと、金と暴力で数名の村会議員をかかえて議会を牛耳りとか、物資欠乏時代に県土木関係者、検察庁関係者、警察関係者を次々に招待、食糧や燃料をみやげに贈つて歓心を買い、事業から政治に野望をひろげた等の各記載、

(2)、訴外木戸喜代一、栗原善雄らの立木乗取り事件の主謀者が原告であるとの記載、

(3)、原告が営業自動車のナンバーを数枚作り、これを他に貸したとの記載、

(4)、原告が訴外宇野沢定郎を自家用ナンバーで自動車営業をしたということで告発したとの記載及び「営業したければオレのところえ頼みに来い」とおどしたとの記載、

(5)、西畑中学校建築のいきさつに関する記載全部、

(6)、原告が製材工場の電気メーターをこわして盗電し、出荷する材木は、小湊鉄道中野駅の駅員をおどして優先的に荷を積み込ませ、他の材木は山本の許可がなくては積みおろしをさせなかつたとの記載、

(7)、付近の雑貨商吉野万吉さん(六五)も、物資統制時代に原告が駐在巡査を使つてなんども家宅捜索を行わせ、なんでもない瀬戸物類から澗間組で使うためのツルハシまで押収させた。このため吉野さんはその年、店を廃業してしまつたとの記載

(8)、当時の西畑村長野口幹が、同一事実について二通の証明書を出し、それが一つの動機となつて、原告が右野口に詰腹を切らせて村長を辞職させたとの記載

(9)、原告が町会費の納入を妨げる等当時の区長常泉清の区長としての職務執行を邪魔し、そのために右常泉が区長を辞職したとの記載、

(10)、昭和二一年の総選挙の際、原告が野口幹を詐欺事件で告発したとの記載、

(11)、「暴力による不動産乗つとり」の標題下に記載されている〈1〉〈2〉の記載全部、

(12)、「強盗、傷害、恐喝、脅迫事件」なる標題下に記載されている〈1〉〈2〉の記事中、〈1〉の訴外山本進、七五三野秀らが佐藤菊造に傷害を与えたとの点(その原因程度が異る)を除くその余の記載全部

(13)、「イカサマ賭博の常習」なる標題下に記載されている記事全部

(14)、「うれし泣きの町民」なる標題下に記載されている記事は、悉く誇大に文飾されてたもので、その大部分の記載、(町民大会はうやむやに終り何等とりとめもなかつた)、

(六)、以上の各記載にかかる事実は、すべて虚偽無根の事実であり、かつ右はいずれも原告が山本一家(潤間組)なる暴力団組織をもち、その力をもつて町を支配していたことや、賭博を常習とし原告がその親分となつていたこと等原告の名誉を毀損する事実を具体的に摘示したものである。

(七)、又別紙第七記載の記事は、まず「お礼参りの実例」と題して冒頭に〈1〉〈2〉〈3〉〈4〉の番号を付し所謂お礼参りに該当する暴行・脅迫の具体的事実を掲げ、次にこれに対する大多喜署の捜査の結果による否定的見解を報道しながら、最後に「しかしこうしたことが、たとえ法的に事件が成立しないにしても、すでに長年、山本一家の暴力におびえ切つている町民にとつては、『世話になつた』、といわれれば身の縮む思いであるのが実情である。」との主観的意見を付した記事を掲載することにより、記事全体として大多喜警察署の捜査の結果、否定された冒頭記載のお礼参りに関する事実を結果的に肯定し、これによつて一般読者に、原告及びその一家の者が、お礼参りとして冒頭記載の如き暴行・脅迫を加えたかのような印象を与えたものである。

四、よつて原告は前記三の(一)乃至(六)の具体的事実を摘示した別紙第四の一、二、同第五・六・八に各記載の記事、及び前記三の(七)の印象事実を与えた別紙第七記載の記事を各掲載した毎日新聞及びサンデー毎日が発行・販売されたことによつて、原告の名誉と信用が根底から毀損され、これがため多大の損害を蒙つたところ、右損害は、被告会社の被用者である前記道村博外二名の取材記者及び編集担当者の故意又は重大な過失による取材及び編集行為に基くものであるから、その使用者である被告会社は民法第七一五条により右不法行為の責任を負わなければならない。

五、次に

(一)、原告は明治二九年三月一〇日千葉県夷隅郡関村(現在白子町)関の農家に生れ、当時の尋常高等小学校を卒業し、父母の家業である農業の手伝いをしていたが、明治四五年数え年二二歳の時から、千葉県市原郡五井町の土木建築請負業潤間四郎八方でその事業の見習いをしていたところ、昭和三年小湊鉄道が上総中野駅まで開通し、主人潤間四郎八が同所に運送店を設けることになつたので選ばれてその店に派遣され、運送店の仕事に従事すると共に、土木請負工事のいわば人夫頭のような仕事を担当してきた。そしてその後前記潤間四郎八の後援で、「潤間組」の名称をもつて土本建築請負の業務を開始し、昭和一八年市原通運株式会社が創立されるや、その取締役副社長に就任し、昭和二七年には、その社長となつたが、本件の新聞記事によつて、その名誉と信用とを悉く傷つけられ、再び社会人としての名誉を担い、事業主としての信用を回復することのでき難い地位に追い詰められて、会社の運営に支障を及ぼすおそれがあつたので、昭和三一年三月社長を辞任し、又土本建築請負業も、同年七月二五日廃業し、現在はただ山本建設株式会社の一株主として、その会社の事務の一部を執つているに過ぎないものである。

(二)、その間において、

(1)、原告が昭和二六年一月以降同三一年二月迄に請負つた工事は別紙第九〈省略〉工事経歴表記載の通り総計五七件金額にして九一九八万一〇〇〇円の多きに上り、

(2)、又公の職歴として、原告は(イ)昭和一七年から同二五年まで、千葉県陸上小運搬業組合大多喜支部長、千葉県労務報国会理事兼大多喜支部長、千葉県産業報国会理事兼大多喜支部長、千葉県燃料商業組合理事兼夷隅支部長に各在任し、(ロ)、昭和二四年から千葉県土建協会理事となり、同二八年から同協会夷隅支部副支部長に就任し、(ハ)、昭和二四年大蔵省から茂原税務署参与を嘱託され、(二)、昭和二六年千葉県交通安全協会大多喜支部理事兼副支部長に就任した。

(3)、更に原告は、昭和一九年四月二九日、千葉県薪生産集荷組合理事長梶川儀から表彰状を受けたのを始めとして、昭和三〇年一二月八日夷隅町長吉野順一から感謝状を受ける迄、前後一九回に亘つて各種団体の長から表彰状、感謝状を受けたものである。

(三)、更に原告は妻かねとの間に長男進、二男秀、三男良の三子があり、右三子は従来原告と同居し、原告の経営していた土木建築請負業の手伝をして来た。

又原告が住居地において所有している不動産は畑、宅地、山林、家屋等合計評価額にして七九万四七二〇円相当のものを所有している。

(四)、次に、

(1)、本件記事を掲載した毎日新聞は、実に明治五年の創刊にかかるもので、我が国の新聞紙中で最も古い歴史と、永い伝統を有しているものであり、その発行部数においても我が国の新聞紙中、第三位以下に下るものではなく、殊に千葉県下の発売部数は第一位であると推測されるし、又サンデー毎日も被告が日刊毎日新聞とともに被告会社の運命の大半をかけて経営・発行しているもので、その発行部数は、週刊雑誌中の王座に位しているものと推測され、而かも右サンデー毎日は高等学校初年頃の教育程度を、又毎日新聞の社会面はそれと同程度又はそれよりやや低い教育程度の読者を標準として編集されており、その読者層は極めて広い上、右毎日新聞・サンデー毎日に掲載された記事が、これを直接読んだ者から、更に他の多数の人々に語り伝えられるであろう事実を併せ考えれば、本件記事の大衆に与えた影響・効果は極めて大であるといわなければならない。

(2)、一方前記請求原因二に記載の如き見出し及び写真を付し、別紙第四の一、二、同第五乃至第八記載の如き内容を掲載した本件各記事は、その編集の形式及び記事の内容からみて、徹頭徹尾刺激的であつて、原告に対する憎悪意識があふれており、殊に昭和三一年二月二六日付毎日新聞を始めとして前後六回に亘り、その記事の印象を強めるために同じようなことを繰り返し報道したことは、原告を社会的に葬り去らうとする悪意の現われに外ならず、これによつて原告の名誉が毀損された程度は甚だ大であつたといわなければならない。

(五)、以上(一)乃至(四)の諸点を綜合し、殊に原告が本件記事の頒布されたことを主たる要因としてその生業を廃絶するに至つたこと等を参酌すれば、本件記事により原告の蒙つた精神的苦痛その他に対する損害の賠償額は、金五〇〇万円と算定するのが相当であり、又、毀損された名誉回復の方法としては、別紙第一乃至第三記載の広告をさせるのが相当である。

六、よつて原告は被告に対し、右損害賠償として金五〇〇万円及びこれに対する本件訴状送達の翌日である昭和三二年一一月一五日以降右支払済に至る迄民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払並びに名誉回復の方法として請求の趣旨二記載の広告を命ずる裁判を求め、更に被告が本判決確定後毎日新聞については一週間以内に、又サンデー毎日については二週間以内に、請求の趣旨二記載の広告を掲載しなかつたときは、これによつて原告は右掲載義務を怠つたものごとに、金三〇万円相当の損害を蒙るものというべきであるから、右各義務を怠つた場合の損害賠償として、予備的に各金三〇万円の支払を求めるため本訴請求に及んだと述べ、

被告の主張事実中、山本進、山本良、七五三野秀、植草繁夫、藤原正男、木下勉、鳥居(井)一雄等が被告主張の如く千葉地方裁判所に起訴されたことは認めるが、その余は全部否認する、右山本進外六名の者は原告の配下にあるものではないし、又右の者に対する起訴事実は、本件各記事に掲載された内容とは全く異なつていると述べ、なお、

一、被告会社は本件各記事は、いずれも「潤間組」なる組織体或は団体を主対象としたもので、その記事中に個人の名が出てくるのは、その団体の分子としてのものに過ぎないから、原告個人の名誉を毀損するものではないと主張するが、仮りに本件各記事の原稿を書いた被告会社の取材記者等が、右被告会社主張の如く団体を主対象としてこれを書いたとしても、本件各記事を一般読者の普通の注意と読み方を基準として判断すれば、本件各記事は、前記請求原因三に記載の如く、原告個人に関することを記載したものと解すべきであつて、原告個人の名誉を毀損するものであることは明らかであるから、被告はこれに対し、民法所定の責任を免がれることはできない。

二、次に被告は、本件記事中、原告が前記請求原因三において主張する部分の記事は、すべて真実であつて、これを報道することは、被告会社の正当業務行為である旨の主張をするが、右事実はすべて前述の通り虚偽の事実である。すなわち、

(一)、別紙第四の一記載の記事について

(1)、訴外平田四郎こと全命祚は古物商であるが、昭和一五年頃から約二年間位、原告が自己の営む土木建築事業のため、右全命祚を使用したことがあり、又昭和二一年頃同人が独立して古物商の営業をするようになつてからは、自動車の部分品(廃品)や、土本建築に使つた廃品のスコツプ・ボート類等の屑鉄を売つてやつた関係で出入していた者に過ぎず、原告の代貸でもなければその配下にあるものでもない。

(2)、次に植草繁夫は、昭和二八・九年頃から、原告の居村に来てパチンコ屋をはじめた者で、原告とは何等の関係もない。

(3)、原告と訴外君塚功との関係については、右君塚所有の土地と原告所有の土地とは、町村道と水路とが中に挾つていて、境界がはつきりしているのにかかわらず、君塚は今から約二五年前にこの境界線を超え、原告所有の土地二坪位を侵して自己の建築物を作つたので、原告が君塚に対してその回復を請求し、昭和三〇年に、訴外大多喜町長尾本要三及び斎藤甚吉、斎藤万右衛門の仲介で、その境界を協定し、原告は君塚の家に出入する通路を提供するため、その協定線から三尺距てて建物をつくり、今日に至つたもので、本件記事にあるが如く、原告が君塚の土地を侵奪したものではない。

(4)、原告が昭和二一年頃訴外吉野万吉方に駐在巡査を同道して、その商品を持出した事実はなく、又昭和二五・六年にかけて警察官えのせん別を強要した事実もない。

(5)、昭和三〇年の暮に、大原警察署のいわゆる脱走事件捜査の際、当時原告が交通安全協会大多喜支部理事兼副支部長をしていた関係から、大原警察署より原告に対し電話をもつて、「犯人が老川村(原告居村の隣り村)に逃げた形跡があるから、同村の消防組に頼んで手配して貰いたい、すぐ署員が自動車で行くから」との依頼があつたので、原告は時を移さず老川村に行き、消防組の幹部にその旨を伝え、機宜の手配をしたが、その後同署の捜索隊が姿を見せなかつたので、これに対しかなり不満を抱いた者があつたところから、原告は自費で菓子折を買い、これを老川村消防組幹部に提供した事実はあるが、それ以外に本件記事にあるが如く、原告が警察署員を饗応したり、原告の居宅を取調室に提供した事実はない。

尚この事件につき、大原警察署が訴外平田四郎方に捜査本部を設けたとか、同人が警察署員を饗応したことがあつたとしても、これは全く原告に関係ないことである。

(二)、別紙第四の二記載の記事について、

(1)、訴外平田四郎、同植草繁夫両名の行為に関する記事は全く原告に関係のないことである。

(2)、訴外山本進の苅米利行に対する暴行の記事は、全くその事実がない。ただ七五三野秀が同人に対して暴行したことはあるが、その原因も態様も全く異なつている。

(3)、七五三野秀と始関健蔵との関係は、始関健蔵が生業を怠つて家計が困難であつたところから、原告は同人を救済する目的で、牛馬売買業を営んでいた訴外岡本初治に頼み、馬六頭を代金約一五万円で買入れ、その馬を右始関に飼育させ、成長後にこれを始関に売らせて利益をあげたならば、それを始関の生業資金にしてやらうとしていたところ、右始関が、原告に無断で、その内の二頭を他に売ろうとしたことがわかつたので、原告がその次男七五三野秀に命じてその馬をひいて来させたものであつて、本件記事の如く始関の買つた馬を秀が盗み出して他に売つたことはない。

(4)、訴外山本進、山本良の両名が、及川、福島に暴行ないし傷害を与えた事実はあるが、その原因も程度も全く異なつている。

(5)、訴外野口政義と浅野仲とのいきさつは原告の全く関係しないことである。

(三)、別紙第五記載の記事について

(1)、江口検事等の捜索・逮捕の際の情況は、甚しく誇大である。自動車がサイレンを嗚らしたのは、逮捕した者を大多喜警察署に連れて行く途中だけのことで、捜索隊がサイレンを鳴らして、原告の家の中になだれ込んだということは全くない。

(2)、原告方事務所裏に、捜索隊員が、「これが常設バクチ場だ」とあきれたという建物は全く存在せず、この点に関する記事は、被告会社の記者の完全な創作である。

(3)、この検挙の際の町の人々の表情に関する記事も、記者の創作であつて、虚偽の事実である。

(4)、「容疑の一例」以下の記事も前記(一)の(3) 乃至(5) に記載の通り、虚偽の事実である。

(四)、別紙第六記載の記事について

(1)、訴外山本進、七五三野秀等が佐藤菊造に傷害を与えたことはあるが、その原因と程度が異るし、それはすでに示談の成立したことである。

(2)、訴外吉野万吉に関する記事については、前記(一)の(4) に記載の通り虚偽の事実である。

(五)、別紙第八記載の記事について

(1)、原告が子分五〇余名をようする潤間組を組織しているということ、金と暴力で数名の村会議員をかかえて議会を牛耳つたとか、物資欠乏時代に県土木関係者、検察庁関係者、警察関係者を次々に招待、食糧や燃料をみやげに贈つて歓心を買い、事業から政治に野望をひろげた等ということは全くない。(別紙第四の一記載のこの点に関する記事についても同じ)

(2)、訴外木戸喜代一、栗原善雄等の山林立木乗取り事件の主謀者が原告であるという事実は全くない。ただ原告は右栗原から賍物を故買したとの嫌疑で逮捕されたことはあるが、右は不起訴となつたものである。

(3)、原告が、営業自動車のナンバーを数枚作り、これを他に貸したという事実は全くない。

(4)、原告が訴外宇野沢定郎を自家用ナンバーで自動車営業をしたという疑で告発したことはないし、又「営業したければオレのところえ頼みに来い」とおどしたこともない。

(5)、西畑中学校建築の際のいきさつも全く事実に相違している。

この建築は昭和二三年に原告が請負つたものであるが、注文主たる村から支給された材料は、屋根材の波形スレートだけであつたから、支給材料を他に流用したと疑われるようなことがあり得る筈はない。

そして右村から支給されたスレートが粗悪で雨漏りが甚しいため、その後補修工事をして瓦に葺きかえたもので、その原因も責任も原告には全くない。

(6)、原告が製材工場の電気のメーターをこわし、盗電したことも、中野駅員をおどして優先的に荷を積み込ませたことも、他の材料を原告の許可なしに積みおろしをさせないという事実はすべてない。

(7)、訴外吉野万吉に関する記事については前記(一)の(4) に記載の通りその事実は全くない。

(8)、当時の西畑村長、訴外野口幹が同一事実について、二通の証明書を出し、それが一つの動機となつて村長を辞職したことは原告に関係のないことである。

(9)、区長の訴外常泉清の辞職は、原告の関係したことではなく、また原告が町会費の納入を妨げる等右常泉の区長としての職務執行を邪魔したことはない。

(10)、昭和二一年の総選挙の際、原告が訴外野口幹を詐欺事件で告発したことはない。当時同人が警察署に留置されたことはあるが、その容疑が何であつたかは、原告は全く知らない。

(11)、「暴力による不動産乗つとり」の標題下の〈1〉〈2〉の事実はない。

(12)、佐藤菊造に関する記事は前記(四)の(1) に記載の通りその原因、程度が異る。

(13)、「イカサマ賭博の常習」なる標題下の記事についても前記(三)の(2) に記載の如く常設トバク場といわれるような建物はなく、又始関健蔵との関係についても前記(二)の(3) に記載の通りである。

更に訴外大川徳太郎の関係については、同人は戦時中その使用されていた会社の製炭事業のため、原告の居村に来た際、原告所有建物を住居として貸した事実はあるが、同人はいわゆる博徒ではなく、又原告が同人等と賭博をしたことは全くないし、駐在巡査を張番にして、イカサマ賭博をしたこともない。

(14)、「ウレシ泣きの町民」の標題下の記事は、悉く誇大に文飾されたもので、町民大会はうやむやの間に終り、何等とりとめのなかつたものである。

(六)、以上の外、被告会社が真実であると主張する事実はすべて虚偽であるから、被告会社はその主張の如き正当な業務行為その他の事由により、本件各記事による名誉毀損の責任を免がれることはできない。

三、次に被告会社の被用者である道村博外二名の取材記者及び編集担当者等において、当時前記虚偽の事実をすべて真実と信じてはいなかつたし、仮りに真実と信じていたとしてもそう信ずるにつき正当な事由はなかつた。

(一)、まず被告は被告会社の被用者である道村博外二名の取材記者は、本件各記事を主として当時の千葉地方検察庁入戸野次席検事から取材したと主張するが、かかることはあり得る筈がない。すなわち、本件主張の各記事は、原告等に対する起訴前即ち捜査中に掲載されたものであるが、刑事訴訟法第一九六条は、「検察官は――その他職務上捜査に関係ある者は、被疑者その他の者の名誉を害しないように注意し」なければならないと明定しており、この規定は旧刑訴第二五三条の捜査の秘密保持と共に、被疑者その他の者の名誉保障についての規定にその伝統を存し、近代刑訴法においては大陸法系においても、英米法系においても思想的に共通した重要な規定の一つである。されば入戸野次席検事がこのような重要な規定を無視して被告会社の被用者たる道村博等に対し、本件各記事によるような事実を捜査したとしてその内容を発表する筈がない。しかももし入戸野次席検事がかかる捜査内容を発表するとすれば、それは「検察庁発表」と称せらるべきものであつて、被告会社に対してのみならず、他の新聞社に対しても当然同時に発表さるべき性質のものであるから、右発表があれば当時必ずや他の新聞にも本件各記事と同様の記事が掲載された筈であるに拘らず、当時他の新聞に右記事が掲載されたことは全くない。したがつて本件各記事の取材源が被告主張の如く入戸野次席検事である筈がない。

(二)、却つて前記各記事が虚偽であることは、被告会社の被用者である取材記者が真実を報道するという責任を解し、これを探らうとする誠意さえもつておりさえすれば容易にわかつた筈であるばかりでなく、数名の記者が数回に亘り現地に来て事実を調査したことがあるところからすれば、被告会社の取材記者に右虚偽の事実を真実と信ずるにつき正当な事由があつたとはいい得ず、むしろ前記各記事を掲載することにより原告の名誉を毀損する故意があつたか、しからざれば重大な過失があつたといわなければならない。

よつて被告の主張はいずれも理由がないと述べた。〈立証省略〉

被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とする、」との判決を求め、答弁として原告の主張事実中、被告会社が新聞紙等の発行・出版等を目的として設立された法人で、現に日刊新聞である「毎日新聞」及び週刊雑誌「サンデー毎日」を発行・販売していること、被告が原告主張の各日時に、その主張通りの各記事を掲載した「毎日新聞」及び「サンデー毎日」を各発行し、これを不特定多数の読者に販売・閲読させたこと、右各記事は被告会社の被用者である道村博、宍倉靖、白木東洋の三名の取材記者が取材して作成した原稿に基き、これを被告会社の編集担当者が編集して掲載したものであることはいずれも認める。原告がその請求原因五の(一)において主張するが如き経歴を有すること、並びに同五の(二)及び(三)において主張する事実はいずれも不知、その余の事実は、請求原因五の(四)の(1) において主張する事実を除き全部否認すると述べ、更に、

一、原告主張の別紙第四の一、二、同第五乃至第八記載の本件各記事は、いずれも原告が主宰するいわゆる潤間組の暴力に関するもので、原告個人に関することではない。すなわち、(1) 、昭和三一年二月二六日付毎日新聞朝刊第七面に掲載の別紙第四の一記載の記事には、「暴力の町手入れ、きよう千葉・大多喜潤間組に」なる見出しが、(2) 、同紙千葉版に掲載の別紙第四の二記載の記事には、「″オレが法律″の潤間組、明るみに出た大多喜の暴力団、警察もみてみぬふりか」なる見出しが、(3) 、同日付夕刊第三面に掲載の別紙第五記載の記事には、「千葉の暴力の巣に手入れ、幹部四名を捕う、″力″で町を支配する潤間組」なる見出しが、(4) 、又同年三月一八日付サンデー毎日に掲載の別紙第八記載の記事には、同記事中に「傍若無人の潤間組」なる見出しが、それぞれ付されており、右各記事はいずれも組織体或は団体である潤間組を主対象とし、同組の暴力に関する記事であることは、右見出し自体から明らかであるし、又同年二月二七日付朝刊千葉版に掲載の別紙第六記載の記事及び同年六月六日付朝刊千葉版に掲載の別紙第七記載の記事も、山本一家即ち潤間組に関するものである。尤も右各記事の内容中には、原告その他山本進、山本良、平田四郎こと全命祚などの個人名が記載されているが、これはその組織又は団体の分子としての各言動その他の行動を報道したに過ぎない。したがつて本件各記事は原告個人の言動を具体的に取り上げてこれを摘示したものではないから、何等原告個人の名誉を毀損するものではない。

二、仮りに本件各記事が原告主張の如く原告個人の名誉を毀損するものであるとしても、次に述べる理由により、被告会社には右名誉毀損による不法行為の責任はない。すなわち、

(一)、被告会社は社会的・公共的事象を取材し、これを報道する言論機関であつて、所謂取材及び報道の自由を有し、社会公共の利益に関する事実を報道することは、原則として公共的報道機関たる被告会社の正当な業務行為と解すべきであるし、又更に現行刑法第二三〇条の二によれば、公然事実を摘示して人の名誉を毀損した場合においても、それが公共の利害に関する事実に係り、かつその目的が専ら公益を図るに出たこと、及び事実の真実なることが証明されたときは、之を罰しないとされているところ、かくの如く真実証明のあることにより、刑法上名誉毀損罪の成立しない場合には、民法上においても名誉毀損による不法行為の責任は免れると解すべきは勿論のこと、更に民事上においては、事実が公共の利害に関せず、又その目的が専ら公益を図るに出なかつた場合においても、なお真実の証明をして不法行為の責任を免れ得ると解すべきであつて、このことは、旧新聞紙法第四五条、旧出版法第三二条に新開に掲載した事実が真実なることを証明した場合には、不法行為による損害賠償の責任を免れると規定したことに徴しても明らかである。

(二)、ところで本件各記事は、当時千葉地方検察庁が三ケ月余にわたつて内偵し、捜査を遂げて千葉地方裁判所に起訴した原告をはじめ、その配下の山本進、山本良、七五三野秀、植草繁夫、藤原正男、木下勉、鳥居(井)一雄等の暴力行為、その他一連の犯罪にかかる事実を報道したものであつて、右原告等による暴力行為等の犯罪は、当時政府がその政策として採り上げた全国的暴力団取締り強化のきつかけとなり、又衆議院法務委員会においても論議され、国家的に問題となつた事件である。したがつて本件各記事の内容は、その性質上公共の利害に関する事柄である。

(三)、しかして被告会社及び本件各記事の取材に当つた被告会社の取材記者道村博、宍倉靖、白木東洋及び被告会社の編集担当者等は、右原告及びその配下の者等の暴力行為は直接国民の生活をおびやかし、社会の平和と秩序を乱すものであつて、直接公共の福祉に影響がある事件と考え、これを取り上げて報道することにより、国民の自覚と批判を求め、類似の行為が反覆されないよう社会に警告して、この種犯罪の撲滅を期する公益の目的から、本件各記事を取材し報道したものであつて、原告に対する私怨、その他の悪感情から、これを報道したものではない。

(四)、しかも本件各記事中、原告がその名誉を毀損されたと主張する部分の記事は、すべて客観的な真実である。

仮りに右記事中、真実でないものがあるとしても、本件各記事は、前述の通り、いずれも被告会社千葉支局勤務の取材記者道村博、宍倉靖、白木東洋の三名が取材してその原稿を作成し、これを被告会社の編集担当者等が編集したものであるが、右三名は本件各記事の原稿を作成するに当り、当時主として千葉地方検察庁入戸野次席検事からこれを取材して克めいにメモをし、整理して過ちなきように注意を払い、更に必要に応じて他からも取材したのであつて、その結果右三名及び被告会社の編集担当者等は本件各記事に掲載された事実をすべて真実と信じ、かつそう信ずるにつき相当の理由があつたものである。

以上(一)乃至(四)の理由により、被告会社には本件各記事による名誉毀損につき不法行為の責任はない。

三、尚又原告は別紙第七記載の記事につき、被告会社がその終りに、「しかし――」以下の主観的意見を付したことにより原告の名誉を毀損したと主張するが、新聞による報道には、報道関係者が主観的な事実に対し、通常の社会的通念から生ずる客識的な意見を付することは、公正な批評として当然容認さるべき正当行為と解すべきところ、右被告が別紙第七記載の記事に付した意見は、客観的事実に対する公平な批評として当然許さるべき業務上の正当行為である。よつてこれによる名誉毀損につき、被告会社にはその責任はない。

と述べた。〈立証省略〉

理由

被告会社が新聞紙等の発行・出版等を事業目的として設立された法人で、現に日刊新聞である「毎日新聞」及び週刊雑誌「サンデー毎日」を発行・販売していること、被告会社がその発行にかかる昭和三一年二月二六日付毎日新聞朝刊第二八六五九号第七面中央上部(全国版)に、原告主張の見出し及び写真を付した別紙第四の一記載の記事を、又同紙千葉版中央三段から六段にかけて原告主張の見出しを付した別紙第四の二記載の記事を、同じく同日付毎日新聞夕刊第二八六六〇号第三面トツプに原告主張の見出し及び写真を付した別紙第五記載の記事を、同じく同月二七日付毎日新聞朝刊第二八六六一号千葉版トツプ面に、原告主張の見出し及び写真を付した別紙第六記載の記事を、同じく同年六月六日付毎日新聞朝刊第二八七六〇号千葉版トツプ面に原告主張の見出しを付した別紙第七記載の記事を、更に被告発行の週刊雑誌「サンデー毎日」通巻第一九二五号(昭和三一年三月一八日号)の第二二頁から第二三頁にわたり、原告主張の見出し及び写真を付した別紙第八記載の記事を、それぞれ掲載してこれを不特定多数の読者に販売・閲読させたこと、及び右各記事はいずれも被告会社の被用者である取材記者道村博、同宍倉靖、同白木東洋が取材し、これに基いて被告会社の編集担当者が編集したものであることはいずれも当事者間に争いない。

第一、そこで次に前記各記事が原告個人の名誉を毀損するものであるか否かについて判断する。

一、別紙第四の一記載の記事について

右記事は「暴力の町手入れ、きよう千葉・大多喜潤間組に」なる標題の下に、千葉地検では二五日(「註」昭和三一年二月のこと)、千葉県夷隅郡大多喜町西畑潤間組=社長原告既逮捕=の幹部で原告の長男山本進、二男七五三野秀、三男山本良はじめその代貸平田四郎こと朝鮮人全命祚、同植草繁夫の五名の逮捕状を請求し、二六日未明千葉県警本部の応援で同組の根拠大多喜町西畑を急襲一斉手入れを行うことになつたことの経過を掲げた後、以下の記事部分において、

(1)、千葉地検で内偵した結果原告らが一〇数年間暴力によつて一つの村(人口五〇〇〇名)を完全に支配し、警察もその″私兵化″されているということが判明したとのこと、

(2)、原告が昭和一五年頃大多喜町西畑に子分五〇余名を持つ潤間組を組織する一方、市原通運株式会社を設立し、附近の土木・建築・運輸の事業を独占し、博徒植草繁夫をはじめ、西畑に流れ込んでくる博徒や前科者を引き入れ、平田四郎を代貸に隠然たる勢力を張つているとのこと、

(3)、これら暴力団の外に原告は町議二名、前村議五名など有力者をかかえ、営業の妨害、財産の横領などのほか、町当局や駅・消防などにも暴力をふるつて干渉したとのこと、

(4)  原告らの犯した犯罪で千葉地検の捜査により現在までに判明したものだけでも、詐欺三件(公正証書不実記載を含む)、窃盗三件、強盗傷人四件、傷害六件、恐かつ脅迫二八件を数えているとのこと、

(5)、原告が地元警察となれあい、放任されて無警察状態となり、町民から″ウルマ″の親分と恐れられているとのこと、

(6)、昨年(「註」昭和三〇年のこと)八月七日、原告が大多喜町中野商工会長、町議君塚功所有の土地に繩を張り家を建てようとしたので、右君塚が原告方を訪れてこれをただすと、原告は「二〇年前お前のおやじがおれの土地まで侵入したのだ。お前はこんど商工会で映画館を作る運動をしてこつちの計画の邪魔している。」等と申し向けて脅迫し、強引にそのまま工事を進め、「これでも最初の境界線より三尺引いて建ててやつた」といつて階下だけ三尺引き下げた奇妙な二階建を建築して、右君塚所有の土地を侵奪したとのこと、

(7)、(イ)、原告は駐在巡査や大多喜警察署刑事の転勤に際し、子分に村内を歩かせ、強制割当でせん別を集め、昭和二一年頃から同二五・六年頃にかけてこれを断つた吉野万吉外数名の者にいやがらせや脅迫をしたとのこと、(ロ)、昭和三〇年暮大原署の脱走事件の捜査の際原告の代貸平田四郎の家を大多喜署の刑事の案内で大原署の刑事数名が捜査本部にし、平田から供応をうけたとのこと、(ハ)、又大多喜署員はたびたび原告らの家で酒を飲み、事件発生の場合は山本の家を取調室に使つていること、そしてこれらのことから原告が警察と結びつき、なれあいになつているとのこと、

以上の諸事実を具体的に摘示してこれを報道したものであることは右記事自体によつて明らかなところ、これらの事実はいずれも原告が親分となつて潤間組なる暴力団を組織し、その力を背景に町を支配し、かつ賭博その他の犯罪を行い、しかも警察となれあいになつていること等原告個人の反社会的な生活又は行動(社会悪)を具体的に摘示したものというべきであるから、右各事実を掲載した記事は、その冒頭に掲げられた見出しの如何に拘らず、原告個人の名誉を毀損するものといわなければならない。なお右の外、右記事中冒頭の部分に、平田四郎こと全命祚及び植草繁夫を原告の代貸であると記載して報道した部分も、右「代貸」とは通常所謂「やくざ」又は「博徒」といわれる仲間の身分関係を示すものであつて、前記(2) に摘示の事実とあいまち、原告が右「やくざ」又は「博徒」の親分的地位にあることを暗に示すものであるから、右記載部分も又原告個人の名誉を毀損するものといわなければならない。

二、別紙第四の二記載の記事について

(1)、右記事はまず「″オレが法律″の潤間組、明るみに出た大多喜の暴力団、警察もみてみぬふりか」との見出しの下に、(イ)、夷隅郡大多喜町西畑では潤間組の暴力がいままで法律であつたこと、(ロ)、新しい駅員はかれらから必ず理由のない鉄拳を浴びせられ「いうことを聞く」と誓わされたこと、(ハ)、給料を請求した代償も暴力であること、(ニ)、しかも警察はみてみぬふりをしている場合が多いこと、(ホ)、「これらの暴力行為が日常化され、なかば正当化され、政治や事業に利用されているところに問題がある」と当局ではいつていること、以上の事実を具体的に摘示し、直接には潤間組が右の如き暴力を振つていることを概括的に記載し、

(2)、以下に「現在まで千葉地検の捜査で次のような暴力行為が判明した」として、右暴力行為の具体的事例として、平田四郎こと全命祚、植草繁夫、山本進(原告の長男)、七五三野秀(原告の二男)、山本良(原告の三男)、野口政義等が、浅野晟、井沢喜平治、渡辺某、苅米利行、始関健蔵、福島某、浅野仲等に対し、別紙第四の二記載の記事にあるが如き犯罪行為をなしたこと、及び右野口政義の犯罪行為に対し、大多喜署西畑駐在の井桁巡査が右平田四郎こと全命祚の家で飲酒してみてみぬふりをしていたこと、等を具体的に摘示して掲載したものであること、

したがつて右記事は、原告個人の言動に関し、直接具体的事実を摘示してこれを掲載したものではないけれども、右記事は前記認定の通り、別紙第四の一記載の記事を第七面(全国版)に掲載した昭和三一年二月二六日付毎日新聞朝刊の千葉版に掲載されたもので、右両記事を対比して読めば、別紙第四の二記載の記事は、同第四の一記載の記事と必然的に関連し、その一部を更に詳述して報道したものであることは明らかであり、かつ右第四の一記載の記事は前述の通り、原告が親分となつて潤間組なる暴力団を組織し、これを背景に暴力を以て町を支配していること等を内容とする具体的事実を摘示しているから、前記の如く潤間組の暴力行為並びに右潤間組に属する平田四郎こと全命祚及び原告の息子等個人の暴力的犯罪行為、その他井桁巡査が野口政義の犯罪行為をみて、みぬふりをしていたこと等を具体的に掲載した別紙第四の二記載の記事を読む一般読者は、右各事実をその親分とされている原告個人の行為・人格に関係あるものとして読むのが通常であり、かつその結果原告個人に対する社会的評価を低下させられることは明らかであるといわなければならない。よつて別紙第四の二記載の記事も又原告個人の名誉を毀損するものというべきである。

三、別紙第五記載の記事について

(1)、まず右記事の冒頭に「千葉の暴力の巣に手入れ、幹部四名を捕う、『力』で町を支配する潤間組」なる見出しを付し、以下これを受けて、「(千葉発)千葉地検では二六日(「註」昭和三一年二月のこと)未明千葉県警本部の武装警官六〇名を動員″暴力の巣″といわれる千葉県夷隅郡大多喜町西畑の潤間組(うるまぐみ)=社長山本茂、千葉刑務所に収容中=の本部を急襲――」と記載されている部分は、右見出しと相まつて、潤間組が暴力で夷隅郡大多喜町を支配し、同町西畑は暴力の巣といわれていること及び原告が右潤間組の社長即ち右暴力団の首領であることを摘示したものであるから、右記事部分は原告個人の名誉を毀損するものといわなければならない。

(2)、又右記事中に平田四郎こと全命祚を原告の代貸として報道した部分も、前記一の末段に述べたと同一の理由により原告個人の名誉を毀損するものといわなければならない。

(3)、次に右記事中、「町はホツトした表情」との見出しを付し、以下これを受けて、千葉地検の指揮により潤間組の本部即ち原告方が捜索され、潤間組の幹部が逮捕された状況等を報道したなかで、「武装警官が同家(原告方)を取り巻き、サイレンを鳴らして家の中になだれ込んだ」、とか、「地検の手入れで『山本のところがやられているぞ』と町の人々の表情には驚きと喜びの入りまじつた色が走る、『やつと手をつけてくれましたか』と一人の老人がほつとしたようにつぶやいていた」とか等の記載は、右見出し及び後記の如く原告等の暴力行為を掲載した記事と相まつて、一般読者に原告個人及び原告が社長となつている潤間組の暴力が右の如き反響のある程にひどかつたとの印象事実を与えるものというべく、したがつて右記事部分も原告個人の名誉を毀損するものといわなければならない。

(4)、更に右「町はホツとした表情」との見出の下に以下に記載されている記事中、

(イ)、「――居間にはテレビあり、台所には電気冷蔵庫、電気洗たく機あり、暴力でしぼりあげた財産一千万円のうわさを裏付けている。」とある部分は、右記事の前後の関係から、原告らが暴力を用いて右財産を他人からしぼりあげたとのことを、

(ロ)、又「――事務所裏の奥まつた押入の中に壁の一部を押すと壁が開いてその奥から二階に上る階段が現われ、その階段の上り口も普通の押入になつている。それを開けると六畳の間がある。つまりこの二階は外見からは階段がみえない仕組になつていた。『これが常設バクチ場だ』と隊員はあきれている。」とある部分も原告が右の如き常設バクチ場を設けていたとのことを、

それぞれ具体的に摘示したもので、右記事部分も事柄の性質上原告個人の名誉を毀損するものというべきである。

(5)、次に右記事中、「容疑の一例」及び「警察ともなれあい」の各標題下に記載されている以下の記事全部は、すべて別紙第四の一記載の記事と同一内容のものであつて、前記一の(1) 乃至(7) に記載の各事実を具体的に摘示したものであるから、右記事の部分も前記の通りいずれも原告個人の名誉を毀損するものといわなければならない。

よつて右別紙第五記載の記事は、以上(1) 乃至(5) に述べた範囲で原告個人の名誉を毀損するものといわなければならない。

四、別紙第六記載の記事について、

(1)、右記事中冒頭の「暴力の街、西畑の人々は二代、三代のくもりをやつと払いのけた表情に返つた。――」の書き出しで、以下「――西畑はなお第二、第三の手入れを必要とするようだ。」と記載されている部分迄の記事は、直接には潤間組の暴力のひどかつたこと及びこれを極度に恐れている者があり、右潤間組は再度の手入を必要とすること等を報道したものであるが、右記事は、前述の一乃至三において述べた通り、「原告が親分となつて潤間組を組織し、暴力をふるつていること」等を内容とする別紙第四の一、二、及び同第五に記載の各記事を掲載した昭和三二年三月二六日付毎日新聞の朝刊及び夕刊に続いて、その翌日発行にかかる同月二七日付毎日新聞の夕刊に掲載されたものであり、かつ右別紙第六記載の記事中前記潤間組の暴力等に関する部分の記事に続く以下の記事は、後記の通りいずれも原告等一家の暴力行為について報道しているところからすれば、右直接には潤間組のことに関して報道された記事部分についても、潤間組即原告一家のこととして一般読者に読まれることは明らかであるから、右記事部分は、原告個人の名誉を毀損するものといわなければならない。

(2)、次に右記事に続く以下の記事は、冒頭に掲載されている「明るみに出た西畑の暴力、廃人にされたカジ屋、″占領″されてきた中野駅」なる見出しとあいまつて、

(イ)、原告等一家は昭和三年以来「暴力団通運」を開業し、小湊線上総中野駅の駅員をおどして運搬から積込みまで運送店の仕事を全部やらせていたこと、例えば石を積んだ貨車が到着しても、二週間も荷を降さず、駅員がその荷降し方を頼むと″馬鹿野郎″と云つておどし、結局少数の駅員に石を降させたこともあり、要するに原告等一家は右駅の駅員を暴力で苦しめてきたとのこと、

(ロ)、又大多喜町中野の鍛治屋佐藤菊造は、日頃原告方から頼まれて自動車部分品、ツルハシ、シヤベル等の修繕をしていたが、その修繕代金の支払はほとんど満足に受けられなかつたこと、そしてこれを請求に行くと裏に廻れと云れていたが、その裏には、人夫たちがよつてたかつて制裁を加える場所があり、すでに幾人もここで半死半生にあわされた話を聞いていたので、そのまま逃げ帰り、いつも結局泣き寝入りしていたとのこと、

(ハ)、昭和二六年八月頃、右佐藤菊造が、右修繕代金をふみ倒されたこと等から、原告方から頼まれた修繕を断るや、原告の二男山本秀(七五三野秀)が右佐藤方に来て同人をいきなり殴ぐりつけて道路上に転がし、更に長男の山本進が来て金ドコを振り上げ、″殺してやる″といきまき、ついで殴ぐる、打つ、けるの暴行を連続的に加え、その結果右佐藤は肋骨三本を折られ、肋膜炎を起して廃人同様になり、未だに医者通いをしているとのこと、

(ニ)、更に原告は昭和一八年頃、大多喜町中野二八八の一で百貨店を経営していた吉野万吉を、統制物資隠匿だとして警察に密告し、同人方を家宅捜査させて瀬戸物類から原告方で使うつるはしまで押収させたこと、そのために右吉野万吉はその年店を閉めたが、右は結局原告が警察をまるめ込んでこれをやらしたものとして、同人が泣き寝入りしていたとのこと、

以上の事実を具体的に摘示してこれを報道したものであることは明らかなところ、これらの事実はいずれも原告並びにその一家の暴力行為等所謂反社会的行為を示すものであるから、右記載部分も原告個人がその行為・人格等について有する名誉を毀損するものといわなければならない。

五、別紙第八記載の記事について、

右記事は、

(1)、まず冒頭の「流れものの人夫頭」との標題の下に以下これを受けた本文において、原告が昭和一五年頃強い政治的背景のもとに子分五〇余名をようする潤間組を組織し、金と暴力で数名の村会議員をかかえて議会を牛耳り、終戦前後物資のない時代には、県土木関係者はもちろん、検察庁関係者や警察関係者をも次々に招待、食糧や燃料をみやげに贈つて歓心を買い、事業から政治に野望をひろげたとのことを、

(2)、ついで「傍若無人の潤間組」なる標題の下に以下これを受けた本文において、昭和二八年頃千葉県安房郡下の山林を舞台に行われた木戸喜代一、栗原善雄、鈴木英一等の立木乗つとり事件の主謀者が原告であるとのことを、

(3)、又「悪事の数々を暴露す」との標題の下に以下これを受けた本文において、

(イ)、原告が陸運事務所に取り入り、架空の営業自動車ナンバー数枚を作り、これを月二・三万円で貸し、他の部落民には営業を許さなかつたこと、

(ロ)、そして原告はたまたま自家用ナンバーで営業していた宇野沢貞郎を告発して、二ケ月運転停止処分にし、「営業したければ俺のところへ頼みに来い」とおどしたこと、

(ハ)、原告は暴力と金にものをいわせ、村内の土木建築の事業を入札もなく独占、昭和二六年西畑中学校建築の際には、村から渡した建築用材を他に流し、さらに建築用材として村の神社、寺院などから強制的に供出させた立本も他に流し、自分の倉庫にあつた古材木で手を抜いた工事をしたとのこと、そしてそのため、右工事は数年足らずしてガタガタになり、補修を迫られるとこれも原告が請負い、建築当時の工費とほぼ同額の補修費をとつたとのこと、

(ニ)、原告は製材会社を経営していたが、その電気はほとんどメーター器をこわして盗電し、出荷する材木は小湊鉄道中野駅の駅員をおどして優先的に荷を積込ませ、他の材木は原告の許可なしに積み降ろしをさせなかつたとのこと、

(ホ)、原告は物資統制時代に駐在巡査を使つて何度も付近の雑貨商吉野万吉方の家宅捜索を行わせ、なんでもない瀬戸物類から潤間組で使うためのツルハシまで押取させたとのこと、

(ヘ)、前記(2) の山林乗取り事件に際し、山林所有の田井木材株式会社が、当時の村長野口幹から、「右田井木材株式会社千葉営業所が西畑にない」との証明書をとつたところ、原告はこれをくつがえすために、当時の関助役をおどし、「確かにある」というニセの証明書をとり、さらに「同じ役場から二通の異つた証明書が出たのはどうしたことか、一切の責任は村長にある」として右野口村長に詰腹をきらせたとのこと、

(ト)、昭和二七年一月部落民の選挙によつて原告の気に入らない常泉清が区長に当選したので、原告は町会費の納入を妨げる等してことごとに右常泉の区長としての職務の執行を妨害し、そのために右常泉はわずか三ケ月足らずで区長を辞職したとのこと、

(チ)、昭和二一年の総選挙のとき、原告は反対党の野口幹候補を警察に事実無根の詐欺事件で告発し、その立候補届出の寸前に同人を逮捕させたこと、

(リ)、原告は小湊鉄道中野駅前にあつた西畑地区第二分団の消防小屋の乗つとりを企て、同所に材木を積み上げてその使用を不可能にした上、他のところに消防小屋を作らせてこれに移転させた。そして原告はその後直ちに右小屋をぶち壊し、製材工場を作つて右場所を占拠したとのこと、なおこの外にも原告は駅構内、農協倉庫を私有化して使つているとのこと、

(ヌ)、原告は山林ブローカー栗原に車代はいらないといつて山林買付けにタクシーを使わせておきながら、「車代がかさんでいる、すぐ払え、」と脅して同人所有の家屋を一万円足らずの車代のかたにまき上げたとのこと、

(ル)、昭和二六年八月頃、附近の鍛治屋佐藤菊造は原告から頼まれて自動車の部品、ツルハシなどの修繕をしたが、その修繕代金を請求すると、裏庭に連れ込まれ、丸太棒で半死半生になる程殴ぐられた。そしてその結果右佐藤は肋骨三本を折られ、未だに五年越しの廃人同様の生活を送つているとのこと、

(ヲ)、このほか、原告の息子進、同秀、同良をはじめ子分の朝鮮人平田四郎こと全命祚、植草繁夫ら原告一味による暴力行為は数限りないこと、

(ワ)、原告は自宅裏に、下の押入れから二階の押入れに階段をかけ、一見出入口のない中二階を作り、これを常設賭博場として、昭和二二年頃からイカサマ師始関健蔵や、千葉の博徒大川徳太郎を使い、駐在巡査を張番にして、附近から集まつてくる山林ブローカーや部落民からイカサマ金をまき上げていたとのこと、

以上の事実をそれぞれ具体的に摘示してこれを報道したものであることは右記事自体によつて明らかなるところ、右(1) 、(2) および(3) の(イ)乃至(ワ)に記載の事実を掲載した右記事部分は、いずれも原告が親分となつて潤間組なる暴力団を組織し、これを背景に暴力を以て町政に干渉し、その他原告及びその一味の者が数々の暴力を振い、賭博その他の犯罪を行つていたこと等、原告個人の反社会的生活又は行動(社会悪)を具体的かつ個別的に摘示したものであるから、右記事中に「傍若無人の潤間組」なる見出しが掲げられているに拘らず、なお右記事は原告個人の名誉を毀損するものといわなければならない。

(4)、なお右別紙第八記載の記事中、最後に「うれし泣きの町民」なる見出しを付して以下に掲載されている記事部分は、昭和三一年二月二六日、千葉地検の指揮により潤間組の本拠即ち原告方の手入れが行われ、幹部が逮捕されたときの情況、及びこれを知つた町民の表情、並びにその翌日行われた町民大会の模様等について報道したものであるが、右記事部分は「――突然鋭いサイレンの音がこの人口六千という小さな部落に響いた――、」「――砂を巻いて走る警察のジープは、これでもか、これでもかというように潤間組を威迫していた、」とかの表現、及び更にこれに続いて「地検の手入と同時に、町の人々はいつせいに外にとび出した。――」として以下終り迄別紙第八記載の記事にあるが如き表現方法はとられているため、これと前記「流れものの人夫頭」、「傍若無人の潤間組」、「悪事の数々暴露す」との各見出しの下に掲載された記事と相まつて、これを読む一般読者に、原告等潤間組幹部の逮捕により、右記事記載の如き反響があつた程に原告及び原告が親分となつていた潤間組の暴力がひどかつたこと、及び町民がこれに苦しめられ、大多喜町は暗い暴力の町と化していたこと等の印象事実を与えたものというべく、したがつて右記事部分も原告個人の名誉を毀損するものといわなければならない。

六、別紙第七記載の記事について

原告は、右記事は「お礼参りの実例」との標題の下に、まず〈1〉乃至〈4〉の番号を付してこれに原告等一味による所謂お礼参りといわれる暴行・脅迫の具体的事実に関する記事を掲げ、ついでこれに対する大多喜署の捜査の結果による否定的見解を報道しながら、更に最後に「しかしこうしたことが、たとえ法的に事件が成立しないとしても、すでに長年、山本一家の暴力におびえ切つている町民にとつては『世話になつた』といわれれば身の縮む思いであるのが実情である。」との主観的意見を付した記事を掲載したことにより、一般読者に原告及びその一家の者が前記冒頭記載の如き暴行・脅迫を加えたかのような印象を与えたものであると主張するが、右「しかし――」以下の記事は、その内容自体何等冒頭に記載されている〈1〉乃至〈4〉の暴行・脅迫に関する具体的事実の存在を肯定したものではなく、又その存在を肯定していると誤解されるようなものでもない。しかして右別紙第七記載の記事は、「――地もと民の訴えたお礼参りの主なものは、〈1〉――〈2〉――」と記載し、要するに地もと民の訴えた内容として右〈1〉乃至〈4〉の暴行・脅迫の具体的事実を掲載したものであり、しかもこれに続いて右事実に対する大多喜署の捜査による否定的見解を掲載しているのであるから、前記「――しかし――」以下の記事を附加掲載したことにより、右記事が全体として、一般読者に原告主張の如き印象事実を与えたものとはいい難く、又成立に争いない甲第四号証によるも、右原告の主張事実を認めることは出来ない。よつて右印象事実を与えたことにより原告の名誉が毀損されたとの原告の主張は失当である。

第二、次に前記の通り原告個人の名誉を毀損した別紙第四の一、二、同第五、六、同第八に各記載の記事は、いずれも被告会社の被用者である取材記者道村博、同宍倉靖、同白木東洋が取材し、これに基いて、同じく被告会社の被用者である編集担当者等が編集したものであることはさきに認定した通りであるから、右被告会社の被用者である道村博外二名の取材記者及び右各記事を編集した編集担当者等は、いずれも被告会社の事業を執行するにつき、原告の名誉を毀損したものといわなければならない。しかして名誉毀損における故意とは自己の行為が他人の名誉を毀損するであろうことの認識を指すものであるところ、前記各記事を取材した道村博外二名の取材記者及び編集担当者等が、右記事を取材し、又は編集するに際し、右各記事により原告の名誉を毀損するであろうことの認識を有していたことは、右各記事の内容自体及び新聞業務に従事する者の有する常識とに照らし、当然に推知し得るところである。したがつて右取材記者及び編集担当者等は、右各記事による名誉毀損について故意があつたものというべく、仮りに右認識がなかつたとしても、その認識がなかつたことにつき重大な過失があつたものといわなければならない。

第三、ところで被告会社は本件各記事中、原告個人の名誉を毀損する記事部分は、いずれも公共の利害に関することであり、かつ右記事部分はすべて真実である、仮りに真実でないとしても被告会社の被用者に右事実を真実と信ずるにつき相当の理由があつたもので、而かも公益を計る目的で右各記事を報道したものであるから、被告会社に不法行為の責任はないと主張するので、この点につき考えるに、本件各記事中原告個人の名誉を毀損する部分は原告等の犯罪行為を始めとする反社会的な生活又は行動(所謂社会悪)に関するものであつて、それが公共の利害に関する事柄であることは疑いないところ、かかる公共の利害に関する事実を新聞又は週刊雑誌に掲載発行して他人の名誉を毀損した場合において、その行為が専ら公益を計る目的に出て、かつその記事が真実であること、又は真実であると信ずるにつき相当の理由があることの証明がなされたときは、違法性を阻却し、不法行為の責任は負わないものと解すべく、又右に所謂真実の証明は新聞及び週刊雑誌等による報道の迅速性の要求と、客観的真実の把握の困難性等から考えて、記事に掲載された事実のすべてにつき、細大もらさずその真実であること迄の証明を要するものではなく、その主要な部分において、之が真実であることの証明がなされれば足りるものと解すべきである。そこで以下に前記原告の名誉を毀損する各記事部分につき、右に所謂真実の証明があるか否かについて判断する。

一、別紙第四の一記載の記事について、(但し、右記事中前記第一の一(1) 乃至(3) の事実及び平田四郎こと全命祚及び植草繁夫を原告の代貨であると報道した点のことについては暫く措く)、

(1)、前記第一の一、(4) の事実を摘示した記事部分について

(イ)、証人道村博(第一乃至三回)、同宍倉靖(第一・二回)、同菊地孝(第一・二回)、同野口幹、同田野信一、同山本進、同七五三野秀の各証言、及び原告本人尋問の結果(第一回)を綜合すると、原告は昭和の初め頃から、千葉県夷隅郡西畑村(昭和二九年一〇月一日町村合併により大多喜町となる)中野に居住して運送関係の仕事をしていたが、その後潤間乃至潤間組なる名称の下に、多数の人夫等を使用して個人経営による土木建築請負業を営み、又市原通運株式会社(通称丸通)なる所謂個人会社を設立して、会社組織の下に運輸・運送の事業を手広く営んでいたこと、そして原告は右西畑附近の土木・建築・運輸・運送の事業をほとんど独占し、右西畑では一般に潤間組と云えば原告方のことを、又原告方と云えば潤間組のことを指すものとして、原告方即潤間組と考えられていたこと、又山本進は原告の長男、七五三野秀はその二男(原告の妻の実家の養子となつたため七五三野姓となる)、山本良はその三男であつて、右三名の息子等はいずれも原告と共に西畑中野に居住し、右原告の営む土木建築請負、運輸、運送等の事業に従事していたが、その外に原告方では常時二〇名前後の人夫を使用し、多いときには三〇名乃至五〇名の人夫を使用していたことが認められる。

(ロ)、次に成立に争いない乙第三号証の七、八(乙第六号証の八の一は乙第三号証の八と同一のもの)、同第六号証の七、同第一一号証、その方式及び内容及び弁論の全趣旨により真正に成立したものと認め得る乙第三五号証、証人道村博(第一乃至三回)、同宍倉靖(第一回)、同菊地孝(第一・二回)、同常泉清、同田野信一の各証言及び原告本人尋問の結果(第一回)(但し田野信一の証言、及び原告本人尋問の結果中、後記信用しない部分は除く)によれば、平田四郎こと全命祚は終戦前から原告の居住する西畑村に居住し、一時原告方に傭われていたこともあるが、その後右同村で古物商を営んでいたところ、右全命祚は日頃から親しく原告方に出入りし、後記の如く西畑村で擅ままに暴力を振つていた原告方の所謂子分のうち、その首領格といわれていた者であつて、賭博を常習とし、又暴行・脅迫を常としていたことが認められ、又前記乙第一一号証、同第三五号証、成立に争いない乙第七号証の五、同号証の九、証人道村博(第一乃至第三回)、同宍倉靖(第一回)同菊地孝(第一・二回)、同常泉清、同田野信一、同山本進の各証言及び原告本人尋問の結果(第一回)(但し右山本進、及び田野信一の各証言、及び原告本人尋問の結果中後記信用しない部分は除く)によれば、植草繁夫はもと千葉市に居住していたが、その後昭和二五・六年頃西畑村中野に移住し、同所においてパチンコ店を開業していたところ、右パチンコ店乃至その機械等の売買に関し、原告の長男山本進が関係したこと等から原告を知るようになり、それ以来親しく原告方に出入りして所謂その子分となつたものであること、及び右植草繁夫は昭和三一年二月当時、賭博の前科五犯、暴力行為等処罰に関する法律違反の前科二犯の外、業務上横領、傷害、詐欺、営利誘拐未逐、覚せい剤取締法違反、窃盗等の前科五犯を有するものであることが認められ、右各認定に反する証人田野信一、同山本進、同七五三野秀の各証言及び原告本人尋問の結果(第一・二回)はいずれもたやすく信用できない。そして更に成立に争いない乙第四号証の二、四、五同第五号証の二、三、同第六号証の二乃至四、同号証の六及び九、同第九号証の三、四、同第一三、一四号証、同第一七号証、及び証人山本進の証言によれば、藤原正男は昭和三一年頃原告方の自動車運転手として、又木下勉は同じくその頃原告方の土工として働いていた者であり、野口正芳は昭和三〇年八月頃から原告方に雇われ自動車運転手として働いていた者であつて、昭和三一年三月当時、傷害、脅迫、住居侵入、道路交通取締法違反、暴行等による前科四犯のあつた者、鳥居(井)一雄は昭和三一年頃原告方に雇われ、土工として働いていた者であつて、当時窃盗の前科を有していたことがそれぞれ認められる。

(ハ)、ところで成立に争いない乙第二号証の一乃至二〇、同第三号証の一乃至一五、同第四号証の一乃至六、同第五号証の一乃至三、同第六号証の一乃至七、同号証の八の一乃至四、同第七号証の一乃至八、同号証の一〇、同第八号証の一乃至三、同第九号証の一乃至五、同第一〇号証乃至第一七号証(但し、乙第三号証の八と同第六号証の八の一、及び乙第三号証の一一と同第一〇号証とは同一のもの)、原本の存在及びその成立に争いない乙第一八号証乃至第二九号証、証人道村博(第一乃至第三回)、同宍倉靖(第一乃至第三回)、同菊地孝(第一・二回)、同大野隆、同山本進の各証言(但し山本進の証言中後記信用しない部分は除く)を綜合すると、(i)、原告をはじめ、その長男山本進、同二男七五三野秀、同三男山本良及び前記原告の子分である平田四郎こと全命祚、同植草繁夫の外、原告方に雇われていた藤原正男、同木下勉、同野田正芳、同鳥居(井)一雄等はいずれも別紙第一〇記載の犯罪事実一乃至二八に記載の通り、昭和二五年頃から同三一年頃迄の間に、合計二九件に上る暴行・脅迫、傷害、恐喝、関税法違反、談合入札等の犯罪を行い、かつこれ等の犯罪についてはいずれも昭和三一年中に千葉地方裁判所に起訴され、その後右の者等は同裁判所において右各事実につき全部有罪の判決を受けたこと、(ii)、しかして右各犯罪は、いずれも原告又は原告がその事業を営むにつき呼称していた潤間組なる一つの組織を背景に、主として自己の我欲又はうつぷんを晴すため、右各犯罪の被害者等に対し、いずれもほとんど何等の理由もないか、又は些細なことに因縁をつけてこれを敢行したものであり、かつその犯罪の方法も甚だ残忍であること、(iii )、又右の外原告はかねてから前記の如く西畑村中野において多数の人夫を抱え、潤間組なる名称の下に土木建築請負の外、運輸・運送の事業を独占し、その勢力を背景に何かにつけて近隣の人々に乱暴を働き、或は横車を押す等して所謂西畑において巾をきかせており、又山本進外二名の原告の息子及び原告方の子分平田四郎こと全命祚、植草繁夫、並びに原告方に雇われている人夫等も原告又は前記潤間組なる組織を背景にしばしば暴行・傷害等の粗暴な行為を重ねていたため、近隣の人々は原告をはじめ、原告の息子、平田四郎こと全命祚、植草繁夫、及び同人方に雇われている者等を極度に恐れ、これとかかり合いになることを極力さけていたこと、(iv)、それ故に原告及びその息子又は原告方に雇われている者等から別紙第一〇の犯罪事実に記載の如く暴行・傷害その他の犯罪による被害を受けた大野隆、蓮池義雄等をはじめ、その他の者もほとんど原告一家による後難を恐れ、かつこれを警察に届けても警察と原告方との特別関係から事件として取り上げてくれないことが多かつたため、当時右各被害の事実を警察に届けず、昭和三一年二月千葉地方検察庁により原告方の一斉手入れが行われるまで泣寝入りしていたこと、殊に蓮池義雄、浅野仲等はいずれも同人等の受けた被害事実につき、検察官の取調べを受けた後裁判所に証人として喚問され、証言させられることを極度に恐れていたこと(右(iii )及び(iv)の点については特に前掲各証拠のうち乙第二号証の三乃至七、同号証の一一、同第三号証の七、八、同号証の一二乃至一五、同第五号証の三、同号証の六、七、同第七号証の四、同第一九、二〇号証、同第二二号証、同第二六、第二七号証、証人菊地孝(第一、二回)の証言参照)(v)、そして昭和三一年三月頃までに原告は傷害、脅迫及び臨時物資需給調整法違反による前科二犯が、山本進は事務上過失傷害及び傷害による前科三犯が七五三野秀は業務上過失傷害及び傷害による前科二犯が、山本良は道路交通取締法違反による前科一犯がそれぞれあること(乙第号二証の一三乃至一六、同第八号証の三、同第二一号証参照)がそれぞれ認められ、右認定に反する証人田野信一、同山本進、同七五三野秀、同小高艶三、同斎藤万右衛門の各証言及び原告本人尋問の結果(第一・二回)はいずれもたやすく信用できない。

(ニ)、しかして以上認定の事実及び証人道村博(第一乃至第三回)、同宍倉靖(第一乃至第三回)、同菊地孝(第一・二回)の証言を綜合すれば、原告が土木建築請負等の事業を営むために呼称していた潤間組は、一面において原告を親分としてその息子及び平田四郎と全命祚、植草繁夫その他原告方に雇われている人夫等によつて構成されたいわば一つの団体をなしており、かつ右潤間組は世上一般に所謂暴力団としての一面を有していたものと認めるのが相当であり、又別紙第四の一記載の記事を掲載した新聞が発行・販売された昭和三一年二月二六日迄に、原告及びその息子並びにその子分又は原告方に雇われている人夫等によつてなされた犯罪は、前記の如く当時起訴されて有罪判決の言渡を受けたものだけでも、傷害一一件、暴行・脅迫、暴力行為等処分に関する法律違反一一件、恐喝二件、その他住居侵入、業務防害、銃砲刀剣類等所持取締法違反、関税法及び物品税法違反、談合入札等五件計二九件に上り、この外に後記の如く原告が君塚功の土地を不法に侵奪した事実、植草繁夫が井沢喜平次(喜平治)を脅迫した事実、七五三野秀が始関健蔵から同人所有の馬を無断で持ち出した事実、七五三野秀、山本進等が佐藤菊造に重傷を負わせて修繕代金を支払わなかつた事実、その他原告一家による数々の非行事実が認められるから、別紙第四の一記載の記事中、前記第一の一、(4) に記載の「原告らの犯した犯罪で千葉地検の捜査により現在までに判明したものだけでも、詐欺三件(公正証書原本不実記載を含む)、窃盗三件、強盗傷人四件、傷害六件、恐かつ、脅迫二八件を数えている」と摘示した部分は、その犯罪の罪名及び件数において多少の相違はあるが記事全体としては、なおその主要な部分につき真実の証明があつたものと認めるのが相当である。

(2)、前記第一の一、(6) の事実を摘示した記事部分について成立に争いない甲第一号証の一中、左上の「君塚功さんの土地に勝手に建てた問題の家」と添書のある写真の部分、乙第四〇号証の一乃至三、証人宍倉靖の証言(第一回)により成立の認め得る乙第四四号証の一二、同第四五号証の一、二、証人道村博(第二回)、同宍倉靖(第一回)、同菊地孝(第一回)、同野口幹、同常泉清同君塚功の各証言(但し君塚功の証言中後記信用しない部分は除く)を綜合すると、君塚功は昭和三〇年及び同三一年頃、前記大多喜町の商工会長及び同町会議員をしていたこと、ところでかねてから右君塚功所有の大多喜町(旧西畑村)中野字鍛治屋台二八三番の二原野一七歩(現況宅地)の土地に隣接して原告所有の土地が所在していたところ、原告は昭和三〇年八月上旬頃、右原告所有地及び隣地の君塚功所有の前記二八三番の二の土地にまたがつて原告所有の建物を建築しようと企て、右君塚功の所有地に侵入して繩を張り、同地上に右建物建築の基礎工事を始めたので、これに驚いた君塚功は直ちに原告に対し右建築は自己の所有地を侵害するものであるとしてその旨抗議し、かつ右建築工事を暫く延期するように申入れたが、原告は右建物を建築しようとした土地の範囲はすべて原告の所有地である旨強硬に主張して譲らなかつたこと、そこで君塚功は右二八三番の二の土地の前所有者飯島康にその境界を尋ね、又登記所や大多喜町役場に赴き、図面等を調べて右自己の主張する境界線が前記両土地の正当な境界線であることを確めた上、原告と再交渉したが、原告は相変らず前記当初の主張を頑として譲らず、右君塚功の申立を聞き入れようとしなかつたこと、ところでこの問題についてはその後当時の町長尾本要三や地元の有力者斎藤万右衛門等が仲に入り、結局右当事者間で和解することになつたこと、そして原告は右建物の土台及び一階部分を君塚功の主張する境界線まで下げたが、二階部分は右境界線より約三尺君塚功の所有地につき出た甲第一号証の一にある写真の如き奇妙な建物を建築し、しかも君塚功は爾後右境界線より約三尺自己所有地の中に入つた線を右両地の境界線として認めさせられたこと、なお君塚功が原告に対し前記抗議をした際に原告は、「――二〇年前お前のおやじが俺の土地に侵入した、お前は今度映画館を作ろうとしているが、その仲間に俺を入れなかつた。そこまで俺を排除するならば俺にも考えがある云々――」との趣旨の暴言を吐いたこと、以上の事実が認められ、右認定に反する証人君塚功、同斎藤万右衛門の各証言及び原告本人尋問の結果(第一・二回)はたやすく信用できず他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば、別紙第四の一の記事中、前記第一の一、(6) の君塚功の所有地侵奪に関する部分の記事は真実の証明があつたものといわなければならない。

(3)、前記第一の一、(7) 、(イ)の事実を摘示した記事部分について、

その方式及び内容並びに弁論の全趣旨から真正に成立したものと認め得る乙第三五号証、私人宍倉靖(第一回)の証言により成立の認め得る乙第三一号証、同第四四号証の一四、二六、証人道村博(第二・三回)、同宍倉靖(第一回)、同菊地孝(第一・二回)、同野口幹、同君塚功、同吉野仁男の各証言(但し、吉野仁男、同君塚功の証言中後記信用しない部分は除く)を綜合すると、原告はもと自己の住所地(西畑村中野)を管轄する大多喜署の警察官が他に転勤する場合には、区長や副区長等に所謂奉賀帳を作らせ、これを持つて各住民宅を個別的に訪問させて半強制的に寄附金を集め、これをせん別として右転勤する警察官に送つていたこと、ところで右せん別金の徴収に関し、昭和二一年頃当時西畑村中野で呉服、洋品、金物類等所謂百貨の販売商を営んでいた吉野万吉が、偶々同人に割当てられた金額が高過ぎるとしてこれを出すことを断つたところ、原告はこれに強い反感を抱いたこと、そして原告はその後右吉野万吉を金物類等の統制物資隠匿の疑いで大多喜署に告発し、ついでその頃大多喜署中野派出所の駐在巡査駒塚太郎吉が原告を伴つて右吉野方に赴き、右隠匿物資の捜索・押収をしたことがあり、そのために右吉野方では金物類の販売をやめたこと、その外原告は右吉野万吉以外の者にも当時右せん別金の徴収に関し文句をつけたことがあること、しかしてこれらの事実については、被告会社の取材記者道村博、同宍倉靖、同白木東洋等が昭和三一年二月頃、本件各記事の取材をするため、大多喜町西畑の現地に赴いた際、現地の菊地孝、駒塚太郎吉、市川二郎、君塚功、常泉清、野口幹等から直接右事実を聞いてこれを取材したものであること、以上の事実が認められ、右認定に反する証人君塚功、同吉野仁男の各証言及び原告本人尋問の結果(第一回)はたやすく信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば別紙第四の一記載の記事中、前記第一の一、(7) の(イ)の事実を摘示した記事部分もその主要な部分において真実の証明があつたものといわなければならない。

(4)、前記第一の一、(7) 、(ロ)の事実を摘示した記事部分について

前顕乙第三五号証、同第四四号証の二六、その方式及び内容並びに弁論の全趣旨から真正に成立したものと認め得る乙第三二号証、証人清水淑郎の証言により成立の認め得る乙第三九号証、証人宍倉靖の証言(第一回)により成立の認め得る乙第四四号証の二五、証人道村博(第二回)、同宍倉靖(第一回)、同菊地孝(第一回)、同志賀武揚の各証言(但し志賀武揚の証言中後記信用しない部分は除く)を綜合すと、昭和三〇年五月頃、千葉県大原警察署に勾留中の窃盗犯人が脱走したことがあり、その脱走犯人が大多喜町西畑の山中に逃げたとのことで、右捜査のために大原署員が多数原告の住む西畑に来たことがあること、ところでその際右大原署では原告の二男七五三野秀を通じ、原告方で使用している人夫等に右捜査の協力を求め、又大原署員は当時近くに大多喜署の西畑中野派出所があるのにこれに立寄らず、却つて原告及び原告の子分である平田四郎こと全命祚の家に出入りし、かつ右全命祚のところでは大原署員等に早朝から所謂炊き出しをして飲食をさせたことがあること、そして当時西畑中野の一般の住民は、右全命祚方を捜査本部にしているのではないかとの疑をもつたこと、以上の事実が認められ、右認定に反する証人志賀武揚の証言及び原告本人尋問の結果(第一・二回)は信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば別紙第四の一記載の記事中、前記第一の一、(7) 、(ロ)の事実を摘示した記事部分も又その主要な部分につき、真実の証明があつたものといわなければならない。

(5)、前記第一の一、(7) 、(ハ)の事実について

前顕乙第二号証の七、同第三号証の八、同第六号証の七、同第三五号証、同第三九号証、同第四四号証の二五・二六、証人清水淑郎の証言により成立の認め得る乙第三〇号証、証人道村博(第二・三回)、同宍倉靖(第一回)、同菊地孝(第一回)、同野口幹の各証言を綜合すると、原告方の使用人で、原告の子分と目される野口政義こと正芳が、前述の如く浅野晟及び浅野中(仲)に対し別紙第一〇記載の犯罪事実一七乃至一九の犯行を加えていた際に、大多喜町西畑中野派出所駐在の井桁巡査がその近くにあつた原告の子分平田四郎こと全命祚方において飲酒しており、右犯行を感知しながら、これを取り締らうとしなかつたこと、昭和三〇年頃菊地孝が小湊鉄道中野駅から実家に帰る途中、右平田四郎こと全命祚に呼びとめられて原告方に立寄つた際に、同家の奥座敷から大多喜署の渡辺巡査が酒に酔つて出てきた上、右菊地に横柄な口をきいたことがあること、その他当時大多喜署の警察官等は絶えず原告及び全命祚方に出入りし、殊に鈴木某巡査、渡辺某巡査及び井桁巡査等は度々原告及び全命祚方で昼食等の御馳走になつていた外、平田四郎こと全命祚は日頃から右警察官等に酒食を提供していたこと、以上の事実が認められ、右認定に反する原告本人尋問の結果(第一回)はたやすく信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。しかして以上認定の事実と、前記認定の如く大原警察署に勾留中の窃盗犯人の脱走事件捜査の際、多数の警察官が原告及び全命祚方に出入りし、かつ当時一般に全命祚方をその捜査本部にしていたのではないかと疑われていた事実、及び全命祚は原告の子分中の首領格であつた事実等を綜合すれば、別紙第四の一記載の記事中、前記第一の一、(7) 、(ハ)の事実を摘示した記事部分も又その主要な部分において真実の証明があつたものといわなければならない。

(6)、前記第一の一、(5) の事実及び同(7) の末尾の事実(原告が警察と結びつきなれあいになつているとの事実)を摘示した記事部分について

前記(1) に認定の事実、殊に西畑の人々は原告をはじめ、その息子、その子分平田四郎こと全命祚、植草繁夫、並びに原告方の使用人等による暴力(所謂潤間組の暴力)を極度に恐れ、これとかかりあいになることを避けていたこと、そして右原告等から別紙第一〇に記載の如き犯罪による被害を受けた被害者のほとんどが、いずれも当時原告一家を恐れると同時に原告と警察との特別の関係から、右被害を警察に届けても、これを事件として取り上げて貰えなかつたことが多かつたため、右被害を届けなかつた事実、及び前記(3) 乃至(5) に認定の各事実の外、更に、前顕乙第三号証の一三、一四、同第六号証の六によれば原告の長男山本進が林賀三に対する別紙第一〇に記載の犯罪事実中、二の犯罪を犯していた際、その場に大多喜署の岡田巡査が来合わせながら、右山本進に対する処分は当時何等なされなかつたこと、又原告の三男山本良が吉野国太郎に対する別紙第一〇に記載の犯罪事実中七の犯罪を犯した際、右吉野に対し、「俺は潤間の良だ、警察にも、何処にでも云うてみろ、かまやしないから」との暴言を吐いていたこと、原告方の使用人で原告の子分たる野口正芳が浅野晟に対する別紙第一〇に記載の犯罪事実中一七記載の犯罪を犯した際、右浅野晟から「駐在所に言つて行く、」といわれるや、右野口は「大多喜署なんかまるめてあるから、言つて行つてもどうにもならぬ」との暴言を吐いたことが認められ、又証人佐藤菊造もその証言中で、「――普通の人は――あの人(原告のこと)にはほとんどなびいておつたんです。――人の話ですけれども――警察の署長でさえもあの人には何も言わないというほどなんですから――」と述べている。しかして以上の如き諸事実と、成立に争いない乙第一号証の三、前顕乙第二号証の三乃至七、同号証の九、一一、乙第三号証の七、八、同号証の一二乃至一五、乙第五号証の三、同第六号証の六、七、同第七号証の四、乙第一九乃至二〇号証、同第二六、二七号証、同第三〇、三八、三九号証、証人道村博(第二回)、同宍倉靖(第一回)、同菊地孝(第一・二回)、同佐藤菊造の各証言を綜合すれば、原告と地元警察とは当時なれあいになつており、原告等の犯した犯罪はほとんど放任されていて警察による取締はほとんどなされておらず、この点においては、いわば無警察状態になつているとの観があつたこと、そして原告は町民からは″ウルマ″の親分と恐れられていた事実があつたものと認めるのが相当であり、右認定に反する原告本人尋問の結果(第一回)はたやすく信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば別紙第四の一記載の記事中、前記第一の一、(5) の事実及び(7) の末尾の事実を摘示した記事部分も又真実の証明があつたものといわなければならない。

二、別紙第四の二記載の記事について

右記事中前記第一の二、(1) の点は暫く措き、まず同(2) の点について真実証明があるか否かについて判断する。

(1)、平田四郎こと全命祚が別紙第一〇に記載の犯罪事実中、八、の(1) の犯罪を、植草繁夫が同二〇の犯罪を、野口政義こと正芳が同一七乃至一九の犯罪をそれぞれ犯したことは前記一の(1) 、(ハ)において認定した通りであり、又右野口政義こと正芳の犯行につき、大多喜署西畑中野派出所駐在の井桁巡査がその近くにあつた平田四郎こと全命祚の家で飲酒しており、右犯行を感知しながらこれを取り締らうとしなかつたことも前記一の(5) において認定した通りであるから、右別紙第四の二記載の記事中、平田四郎こと全命祚が浅野晟を脅迫したこと、植草繁夫が渡辺勝枝の義兄渡辺某に暴行を加えて重傷を負わせたこと、野口政義こと正芳が浅野中(仲)方においてタコをとり、かつ同人を脅迫していやがらせをしたこと、その際井桁巡査が平田の家で酒を飲み、みてみぬふりをしていたこと等を直接に摘示した記事部分はその主要な部分において真実であるといわなければならない。

(2)、次に山本進が福島正一に対し暴行を加えて別紙第一〇記載の犯罪事実中三の犯罪を、又七五三野秀が苅米利行に対し暴行を加えて同二三の犯罪をそれぞれ犯したことは前記一の(1) 、(ハ)において認定した通りであるところ、別紙第四の二記載の記事では、右福島に暴行を加えて傷害を与えたのは山本良であり、又苅米利行に暴行を加えて傷害を与えたのは山本進であるとして掲載されているから、右記事部分は犯罪の主体の点において事実と異なつているものといわなければならない。しかしながら山本進、七五三野秀、山本良がいずれも原告の息子であることはさきに認定した通りであるところ、本件においては右記事にある山本進、山本良の暴行・傷害による犯罪行為を原告の行為・人格に関係あるものとして報道したことにより、原告の名誉を毀損したとの点が直接の問題になつているのであるから、右記事中、直接には原告の息子である山本進及び山本良が苅米利行及び福島某に傷害を与えたと摘示した部分につき、同じく原告の息子である七五三野秀、山本進が右各傷害を与えたとの証明がある以上、右記事部分はその主要な部分につき真実の証明があつたものと解すべきである。

(3)、次に前顕乙第七号証の一〇、同第三一号証、証人道村博(第二・三回)、同宍倉靖(第一回)、同菊地孝(第二回)の各証言を綜合すると、植草繁夫は、昭和二八年九月頃、西畑郵便局の簡易保険勧誘係江沢喜平次(喜平治)の勧誘で保険に加入したが、その後犯罪を犯して刑務所に入り、その留守中に右植草繁夫の妻が約一年余りに亘り、約八〇〇〇円の掛金を支払つたのみで、その余の掛金を払わなかつたため、同人が昭和三〇年一一月刑務所を出所した頃には、既に右保険契約は解約になり、かつ右掛金の返戻金はその約半分に過ぎないと聞いて大いに憤慨し、その頃右江沢に対し、「保険に勧誘するときは、中途解約になつても、多少の損をする程度で掛金は殆んど戻るといつておきながら、半分ではひどすぎるではないか、」「それではまるつきり話が違う、」等と申し向けて脅迫し、ついで翌三一年一月頃右江沢を通じて右保険の掛金の返戻金四九〇〇円を受けとつた際にも、同人に対し「これでは随分ひどいではないか」と文句をつけ、その結果、同年二月上旬頃右江沢から樽入醤油(五升入)の交付を受けたことが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば別紙第四の二記載の記事中、植草繁夫が井沢喜平次(喜平治)を脅して醤油をとつたとのことを摘示した記事部分もその主要な点において真実の証明があつたものといわなければならない。

(4)、次に前顕乙第三一号証、証人道村博(第二回)、同宍倉靖(第一回)、同菊地孝(第二回)、同田野信一、同七五三野秀の各証言及び原告本人尋問の結果(第一・二回)(但し、田野信一、七五三野秀の各証言及び原告本人尋問の結果中後記信用しない部分は除く)を綜合すると、始関健蔵は終戦前後の頃から原告の世話を受けるようになり、その後右原告の援助を受けて馬喰等をしていたこと、ところで右始関健蔵が昭和二四・五年頃、同人の姉やその他数名の者から合計約二一万円の資金を借り受けて馬六頭を買入れたところ、当時原告は右始関に右馬の買入れ代金約二〇万円を貸したと称し、その返還を受ける名目の下に右馬を取り上げようと考え、その旨を二男の七五三野秀に伝えたこと、そこで七五三野秀はその頃原告方に出入りしていた大川徳太郎と共に右始関健蔵方に赴き、同人が不在であつたにも拘らず、同人に無断で同人方にいた馬二頭を連れ出し、これを他に約五万円余りで売却したことが認められる。尤も七五三野秀の証言によれば、同人は右馬二頭を連れ出すにつき始関健蔵の父の諒承を得た旨供述しているが、右証言は前記各証拠に照らしたやすく信用できないし、その他右認定に反する証人田野信一、同七五三野秀の各証言及び原告本人尋問の結果(第一・二回)はいずれも信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば別紙第四の二記載の記事中、七五三野秀が始関健蔵方の馬二頭を盗み出し、これを他に売却したとのことを摘示した記事部分も又その主要な点において真実の証明があつたものといわなければならない。

(5)、しかして原告がその事業を営むにつき呼称していた潤間組は、一面において原告及び原告の息子を始め、その子分たる平田四郎こと全命祚、植草繁夫その他原告方で使用されていた者からなるいわば一つの暴力団であつて、原告はその親分的地位にあつたこと(前記一の(1) に認定の事実参照)、上記(1) 乃至(3) の平田四郎こと全命祚、植草繁夫、野口政義こと正芳、山本進、七五三野秀等の犯罪行為はいずれも原告又は原告が親分的地位にあつた潤間組の勢力を背景になされたものであること(前記一の(1) に認定の事実参照)、右野口政義こと正芳の犯行につき井桁巡査がみてみぬふりをしていたことも原告と大多喜署とのなれあいの一事例であること(前記一の(5) 、(6) に認定の事実参照)、又右(4) の七五三野秀が始関健蔵方から馬二頭を連れ出したのも原告にいわれてこれをなしたものであること、以上の各事実についてはいずれもさきに認定した通りであるから、別紙第四の二記載の記事が、平田四郎こと全命祚をはじめとしてその他原告の息子やその子分等の前記犯罪事実ないし非行を具体的に摘示することにより、一般読者にこれらの犯罪乃至非行が原告個人の行為・人格に関係あるものとの印象事実を与えた点については、すべて真実の証明があつたものといわなければならない。

三、別紙第五記載の記事について、(但し右記事中前記第一の三、(1) 、(2) の事実を摘示した記事部分については暫く措く)

(1)、前記第一の三、(3) の事実を摘示した記事部分について

(イ)、成立に争いない甲第二号証中、「平田宅を捜査する警官隊――」との添書のある写真、同第五号証の二中「警官隊に包囲された潤間組の根城」との添書のある写真、証人道村博(第一乃至三回)、同宍倉靖(第一・二回)、同菊地孝(第一回)、同常泉清、同田野信一の各証言(但し田野信一ひ証言中後記信用しない部分は除く)及び弁論の全趣旨、並びに前記一の(1) 、(3) 乃至(6) に認定の各事実を綜合すると、千葉地検では、原告をはじめ原告の息子及びその子分その他原告方に使用されている者等所謂潤間組の関係者等の前記一の(1) に認定の犯罪その他の暴力行為につき、かねてから内偵を続けていたところ昭和三一年二月二六日未明を期して、右原告等潤間組の関係者に対する一斉検挙を行つたこと、ところで右一斉検挙に際しては、当時原告一家と地元の警察である大多喜署とは前記一、(3) 乃至(6) に認定の如く所謂なれあいの状況にあつたところから、千葉地検では右大多喜署の警察官を使わず、千葉県警本部刑事部所属の警察官にその応援を求めることになり、当日武装した県警本部刑事部の警察官約六〇名がジープ二台、パトカー一台、乗用車一台に分乗し、千葉地検の江口及び米田両検事の指揮の下に、大多喜町西畑中野に赴き、原告方や平田四郎こと全命祚、植草繁夫等の家を取り囲んだ上、原告の息子である山本進、七五三野秀、山本良、及び原告の子分である植草繁夫等を一斉に逮捕し、かつ右各居宅を捜査して証拠品を押収したこと、なお原告は当時既に賍物故買の疑いで逮捕されており、又平田四郎こと全命祚は病気を理由に当日逮捕状の執行を留保されたこと、そして右山本進及びその他の者を逮捕して連行するに際しては、それ迄原告又は原告を親分とする潤間組を極度に恐れ、地検の取調べに対して真実を語るを好まなかつた地元民に安心感を与えるためと、潤間組の関係者に対する威嚇の意味で、ジープ等に備えつけてあつたサイレンを鳴らしたこと、一方被告会社の取材記者道村博、同宍倉靖、同白木東洋、同柿沼某等は、右一斉検挙につき、予め千葉地検の入戸野次席検事からその情報を得たので、前記一斉検挙のあつた二月二六日早朝から大多喜町西畑中野に赴き、右検挙の模様を終始仔細に観察してこれを取材したこと、又それと同時に地元民から右一斉検挙に対する感想等を聞いてこれを取材したが、その中で地元の一老人が道村記者に「死ぬ前にいつぺん山本(原告のこと)が手入れされているところを見たかつた」と語つた外、小湊鉄道中野駅の駅員その他の者も右道村記者等に「お蔭様でこれで町が明るくなる、」とか「私から聞いたことは秘密にして下さい、」とかという話をしたこと、そして別紙第五記載の記事にある「町はホツトした表情」との見出しの下に「――武装警官が同家(原告方)を取り巻き、サイレンを鳴らして家の中になだれ込んだ、」とか「地検の手入れで『山本のところがやられているぞ』と町の人々の表情には驚きと喜びの入りまじつた声が走る、『やつと手をつけてくれましたか、』と一人の老人がほつとしたようにつぶやいた、」とかの記事は、右道村記者等が前記の如く取材して、右検挙の模様や地元民の感想等を現実に見聞した結果に基き、これを所謂描写記事としてその原稿を作成したものであることが認められ、右各認定に反する証人田野信一の証言は信用できない。

(ロ)、次に一方前顕乙第二号証の一一によれば、中村勝城が昭和二六年春から同二七年三月頃迄朝日新聞社の取材記者として同新聞社の大多喜通信局に勤務していた際、当時右同人のところに原告一家乃至潤間組の暴力を新聞の力で叩いて貰いたい旨の投書が相当に寄せられていたことが認められ、又前顕乙第三号証の一二によれば、前記千葉地検が原告一家すなわち潤間組に対する一斉検挙を行つた後、同地検に対し、「明るい大多喜町にして慾しい、警察が手を入れなかつた″ウルマ組″に対し検察庁が捜査してくれて有難い」旨の激励の投書が多数あつたことが認められるし、更に前顕乙第三二号証、同第三五号証、証人野口幹の証言により成立の認め得る乙第三六号証の二、成立に争いない乙第四二号証、証人道村博(第三回)、同宍倉靖(第三回)、同菊地孝(第二回)、同常泉清、同君塚功の各証言(但し君塚功の証言中後記信用しない部分は除く)及び弁論の全趣旨を綜合すると、右原告一家すなわち潤間組に対する一斉検挙を契機に、その翌日の昭和三一年二月二七日午後二時から、大多喜町西畑中野の映画館「中野館」において、地元住民の有志により右大多喜町西畑から暴力を追放し、明るい町にするための町民大会が開かれ、これに少なくとも一〇〇人以上の地元住民が参加したこと、そして右町民大会においては原告をはじめ、原告を親分とする潤間組の数々の暴力行為が批判された後、治安維持会なるものが結成され、その会長に常泉清又は野口幹、副会長に川上若吉、君塚功、幹事に市原二郎、駒塚太郎吉、関幸三郎、菊地孝が選任されたこと、又最後には右参加者一同拍手をもつて「暴力追放」、「明るい町の建設」等について決議し、今後は明るい町になるとの希望を抱いて、参加者一同の喜びと感激のうちに右大会を終つたこと、が認められ、右認定に反する証人君塚功の証言はたやすく信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(ハ)、しかして右認定の各事実と、前記一の(1) 及び(3) 乃至(6) において認定した如く、原告及び原告を親分とする潤間組の関係者等が日頃から擅に暴力を振い、かつ地元警察となれあいになつていたため、地元民は右原告及び潤間組の関係者等を極度に恐れていたこと、それ故に右原告及び潤間組の関係者から数々の暴行・傷害をはじめ、その他の犯罪による被害を受けた者も、ほとんどこれを警察に届けることなく泣き寝入りしていたこと、等を綜合すれば、当時原告一家乃至潤間組の暴力は、極めてひどいものであつたと認められる。

(ニ)、そうだとすれば別紙第五記載の記事中、「町民はホツトした表情」との見出しを付し、以下において潤間組の本部即ち原告方が捜索され、潤間組の幹部が逮捕された状況等を、さきに認定した如き表現方法を用いて報道した記事部分は、その表現された記載自体主要な点において真実であるばかりでなく、右記事により前記第一の三、(3) に摘示の如き印象事実を与えた点についても、真実の証明があつたものといわなければならない。

(2)、前記第一の三、(4) 、(イ)の事実を摘示した記事部分について

原告本人尋問の結果(第一回)によれば、原告は昭和三一年頃、土木関係の資本として約一千万円の外、自動車、山その他で合計約四・五千万円の財産を有していたことが認められ、又証人道村博の証言(第二回)によれば、同証人は前記昭和三一年二月二六日、千葉地検による潤間組の一斉手入れがあつた際、現地に赴き、原告方にテレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機等が現にあるのを確認したことが認められる。ところで、

(イ)、前顕乙第二号証の九、同第一〇号証によれば、押田芳方は昭和二六年四月頃、原告方の自動車運転手として働いていたところ、当時同人は右原告方で昼間は一般通常の自動車運送の仕事に従事させられた上、更に夜一〇時頃から翌朝六時頃にかけて東京方面に野菜を輸送する等の激しい労働を強いられていたこと、そして右過激な労働のため、同人が居眠り運転して原告方所有の貨物自動車を田に落してその一部を破損させるや、原告の二男七五三野秀より、自費で右修繕をするよう迫られ、更に同人がこれを理由に右原告方をやめるや、原告の長男山本進及び同三男山本良より、別紙第一〇記載の犯罪事実一の如き暴行・傷害を受けたことが認められること、

(ロ)、その方式及び内容並びに弁論の全趣旨から真正に成立したものと認め得る乙第三四号証によれば、もと同じく原告方に自動車運転手として働いていた苅米利行が、原告方で働いた給料の請求に行つたところ、原告の長男山本進から裏に廻われといわれ、同所で棒をもつて殴打される等の暴行を受けたことが認められること、

(ハ)、前顕乙第二二号証、同第二四・二五号証、同第二八号証によれば、原告は昭和二九年頃夷隅郡東海村(現在大原町)の東海小学校校舎の新築工事を請負い、更にその工事の一部を三山伸二に代金約一万六〇〇〇円で下請させたが、その後右三山に対し、右請負代金一万六〇〇〇円のうち一万円を支払つたのみで、その余の六〇〇〇円については、別紙第一〇記載の犯罪事実二六の如く、右三山方の大工古谷文二に対し、同人が右下請工事の材料を盗んだと称してこれに因縁をつけ、右同人を殴打する等の暴行を加えて結局右六〇〇〇円の残金を支払わなかつたことが認められること、

(ニ)、証人佐藤菊造の証言によれば、後記認定の如く、かねてから大多喜町(旧西畑村)中野において鍛治職をしていた佐藤菊造が、昭和二六年八月頃、さきに原告から頼まれて修繕したツルハシ、鍬、その他自動車部品等の修繕代金一万円余りの支払請求をしたところ、原告はそのうち約五〇〇〇円を支払つたのみで、その余の支払をしなかつたこと、そこで右佐藤がその後原告方から頼まれた自動車部品の修繕を断つたところ、原告の長男山本進、同二男七五三野秀より、殴ぐる、蹴る等の暴行を受け、肋骨八本を折る等の重傷を負わされ、結局右修繕代金の支払を受け得なかつたことが認められること、

(ホ)、前顕乙第二号証の七によれば、右の外原告及び原告の息子等は、日頃から自己の使用人等に対してもすぐに暴力を振い、給料も充分に支払わず、只働きをさせるような状態であつたことが認められること、

(ヘ)、又前顕乙第一八乃至第二〇号証、同第二八・二九号証によれば、原告は昭和二九年三月頃、外車を購入しながらその税金を免がれるため、当時西畑村役場(昭和二九年一〇月町村合併後は大多喜町役場)の係員が、暴力を擅にしていた原告一家の勢力を恐れていたのに乗じ、一年以上の長期間に亘つて、正規の登録手続をせず、試運転を理由とする内容虚偽の臨時運行の許可(道路運送車輌法第三四条参照)申請をして、右役場から不正にその許可書(仮ナンバー)の交付を受け、以て関税二二万一一八四円及び物品税二三万二二四三円を逋脱したことが認められること、

(ト)、以上(イ)乃至(ヘ)の各事実の外に、別紙第一〇記載の犯罪事実二八の不正談合入札の事実、前記一の(2) に認定の君塚功所有の土地を不法に侵奪した事実、同二の(4) に認定の始関健蔵方から同人所有の馬を同人に無断で連れ出してこれを他に売却した事実、後記四の(2) に認定の小湊鉄道中野駅員を脅して同駅員に原告方の荷物の積み降ろしをさせた事実、同五の(3) に認定の西畑中学校の不正建築の事実、同五の(9) に認定の中野駅前の消防小屋を他に移転させるようにし、その移転後はその跡を自己の材木置場等に使用し又中野駅構内の一部及び農協倉庫を自己のため不法に使用していた事実、その他証人道村博(第一乃至第三回)、同宍倉靖(第一乃至第三回)の各証言を綜合すれば、当時原告が取得した財産のうちには、前記各暴力によつて不正に取得したもののあつたことは事実であつて、一般に所謂暴力によつて不当に前記認定の如き多大の財産を作り上げたといわれてもやむを得ない事情にあつたものというべく、したがつて別紙第五記載の記事中、前記第一の三、(4) 、(イ)の事実を摘示した記事部分は、真実の証明があつたものといわなければならない。

(3)、前記第一の三(4) 、(ロ)の事実を摘示した記事部分について

前顕乙第三二号証、同第三五号証、同第三九号証、証人道村博(第二・三回)、同宍倉靖(第一乃至第三回)、同菊地孝(第一・二回)、同田野信一、同山本進、同七五三野秀の各証言及び原告本人尋問の結果(第一回)(但し、右田野信一、山本進、七五三野秀の各証言及び原告本人尋問の結果中、後記信用しない部分は除く)並びに前記一の(1) 、(ロ)に認定の各事実を綜合すると、原告は戦後一時大川徳太郎に原告方所有家屋の一部を貸して、これに同人を居住させていたことがあり、又始関健蔵もその頃から原告が面倒をみるようになつて、一時同人を原告方に置いていたところから、右両名はいずれも原告と密接な関係にあつたこと、ところで右大川徳太郎及び始関健蔵はいずれも所謂バクチ打ちで、殊に始関健蔵は詐欺賭博の常習者であつたところ、原告方には戦後右両名並びに前記一の(1) 、(ロ)に認定の如く賭博を常習としていた平田四郎こと全命祚及び植草繁夫が絶えず出入りしていた外、更に附近の所謂バクチ打ちの親分乃至博徒といわれていた石井某、桐谷長平、山田文正、渡辺時平、市原盛男等多数の博徒が原告方に出入りし、右原告方において賭博を行つていたこと、そして右渡辺時平、市原盛男等は当時いずれも右原告方で開帳された賭博に負け、寺銭をとられて困つていたことがあり、又大川徳太郎も最後には原告と賭博のことで大喧嘩をし、昭和二四年頃日本刀をもつて原告方に暴れ込んだことがあること、又右原告方における賭博開帳の場所については、原告方には原告方母家の前にある道路を越えた向い側に、もと材木置場用の倉庫として建てられた建物を改造した二階に八畳及び六畳の二部屋がある二階建の建物があつたところ、その後右建物は昭和二九年頃原告方母家のある敷地内に移転されたが、右建物にはその内部から二階に上る階段がとりつけてなく、当時一般に右原告方における賭博の開帳は右二階家でなされていたといわれており、かつその際には大多喜署西畑中野派出所駐在の渡辺巡査がその見張をしていたことがあるとさえいわれていたこと、それ故に前記昭和三一年二月、千葉地検による原告方の一斉手入れがあつた頃、捜査当局に対しても「原告は前記始関健蔵に賭博資金を渡して、右原告方の二階家で賭博をやらせ、又平田四郎こと全命祚も右同所で賭博をやつていた」旨の情報があつたので、その後千葉県警本部捜査二課の警察官田野信一が、上司の命令に基いて現地に赴き、右事実の捜査をしたが、当時既に始関健蔵の行方がわからず、同人を直接取り調べることができなかつたため、その確証をつかむに至らず、刑事事件としてはそれ以上に進展しなかつたこと、又前記昭和三一年二月二六日の一斉手入れの際に、現地に赴いてその模様を取材した被告会社の道村記者等は、当時原告方を捜索した警察官から、右二階家のことにつき「大変なものだ」という驚きの言葉を聞いたので、これに基き本件記事を作成したものであること、以上の各事実が認められ、右認定に反する証人田野信一、同山本進、同七五三野秀の各証言及び原告本人尋問の結果はたやすく信用できない。そうだとすれば原告は戦後所謂博徒といわれていた大川徳太郎、始関健蔵、平田四郎こと全命祚、植草繁夫等を自己の配下におき、二階に上る階段のない右原告方の二階家で賭博を開帳していた事実があつたものというべきであるから、別紙第五記載の記事中、前記第一の三、(4) 、(ロ)の事実を摘示した記事部分もその主要な点において真実の証明があつたものといわなければならない。

(4)、前記第一の三、(5) の事実を摘示した記事部分について別紙第五記載の記事中、右第一の三、(5) の事実を摘示した記事部分は、すべて別紙第四の一記載の記事と同一の事実を摘示したものであるところ、右別紙第四の一記載の記事中、前記第一の(4) 乃至(7) の事実を摘示した部分については、前記第三の一、(1) 乃至(6) において述べた通りすべて真実の証明があるから、別紙第五記載の記事も、右と同一の事実を摘示した部分については、すべて真実の証明があつたものというべく、又その余の事実を摘示した部分については後記の通りである。

四、別紙第六記載の記事について、

(1)、前記第一の四、(1) の事実を摘示した記事部分について、

原告一家又は原告を親分とする潤間組の暴力が極めてひどいものであつたこと、及び地元民が右原告一家又は潤間組の関係者等を極度に恐れていたことは前記一の(1) 及び三の(1) において認定した通りであり、又前顕乙第三〇号証、同第三二号証、同第三四・三五号証、同第三九号証、その方式及び内容並びに弁論の全趣旨から真正に成立したものと認め得る乙第三八号証、証人道村博(第二回)、同宍倉靖(第三回)の各証言によれば、昭和三一年二月二六日、千葉地検による原告一家の一済手入れがあつた後においても、まだまだ前記原告一家又は潤間組の関係者等の暴力行為は根絶されず、右原告等を恐れていた者が多数あつたことが認められるから、別紙第六記載の記事中、前記第一の四、(1) の事実の如き印象事実を与えた記事部分についても、その真実の証明があつたものといわなければならない。

(2)、前記第一の四、(2) 、(イ)、の事実を摘示した記事部分について

前顕乙第二号証の三、証人道村博(第二回)、同宍倉靖(第一乃至第三回)、同菊地孝(第二回)、同鈴木正雄、同大野隆の各証言(但し右鈴木正雄の証言中、後記信用しない部分は除く)、並びに前記一の(1) 、(イ)の事実を綜合すると、原告は昭和の初め頃から前記の如く西畑村(後に大多喜町)中野に住居を構えて運送関係の仕事を始めたが、その後市原通運株式会社(所謂個人会社)を設立し、通称丸通なる名称の下に、小湊鉄道株式会社中野駅にその出張所を設け、同駅を通じて荷物の発送及び荷受をして運送業を営んでいたこと、したがつて原告方と右中野駅員とは日頃から密接な関係にあつたところ、原告が右中野駅を通じて発送乃至荷受する荷物は、すべて本来原告方において貨車に荷積をし、又荷降しをすべきであつたに拘らず、原告方において右荷物の積み降ろしをせず、屡々中野駅員に命じてこれをやらせていたこと、昭和二九年乃至三〇年頃にも原告方の石を積んだ貨車が中野駅に到着した際、原告方において約二週間もその荷降しをせず、一方右貨車は中野駅の責任において一定の期限(八時間内)内に所定の駅に返さなければならない関係から、中野駅の係員が何回となく原告方にその荷降し方を交渉したところ、「馬鹿野郎」と怒鳴られ、結局やむなく右駅員の手でその荷降しをしたことがあること、又昭和二九年乃至三〇年頃、中村某が中野駅の助役として赴任した際、原告方に右赴任の挨拶をしなかつたところから、原告の長男山本進に因縁をつけられ、又大野隆が昭和二八年九月頃右中野駅に赴任して間もなくの頃、別紙第一〇記載の犯罪事実六記載の如く原告の三男山本良から一方的に因縁をつけられて暴行を受けたことがある外、同人は更にその頃、原告方の人夫から「潤間の人間は普通の人間ではない、」とか「鍛えてやる、」等といつて脅迫されたことがあること、右の外原告一家の者又はその使用人等は、日頃から屡々右中野駅員に対し荷物の積み降し、その他に関し粗暴な振舞をしていたので、右大野隆が中野駅に赴任した際にも、先輩の駅員から、丸通の名称の下に運送関係の仕事をしている原告方は何かにつけて乱暴を働き、横車を押すので、原告方の荷物については卒先して積み降ろしをするように云われていたし、又同駅員等は原告一家の者となるべく摩擦を起さないように注意していたこと、以上の事実が認められ、右認定に反する証人鈴木正雄、同野口達也、同山本進の各証言はたやすく信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば、別紙第六記載の記事中、前記第一の四、(2) 、(イ)の事実を摘示した記事部分は、真実の証明があつたものといわなければならない。

(3)、前記第一の四、(2) 、(ロ)及び(ハ)の事実を摘示した記事部分について、

前顕乙第三四号証、証人佐藤菊造の証言により成立の認め得る乙第五三号証、証人道村博(第二回)、同宍倉靖(第一回)、同菊地孝(第二回)、同野口幹、同佐藤菊造、同山本進の各証言を綜合すれば、佐藤菊造は古くから原告の住む西畑村(後の大多喜町)中野で鍛治屋業を営んでいた関係で、屡々原告方の依頼によりツルハシ、鍬、マンノウ及びその他自動車の部品等の修繕をしていたが、原告方において日頃から右修繕代金を満足に支払つたことがなかつたので、右佐藤は常にその支払を受けるために苦慮していたこと、ところで昭和二六年八月一三日にも右佐藤は原告に対し、約一万円余りの未払修繕代金を請求したに拘らず、わずか五〇〇〇円の支払を受け得たのみで、その余の支払を受け得られなかつたため、いたく困惑していたところ、同月一九日又々原告方から、同人方の自動車運転手を介して自動車部品の修繕を頼まれたので、佐藤は「いくら仕事をしても修繕代金の支払が受けられず、損をするから寝ていた方がよい」旨のことをいつてこれを断つたが、たつての要求にその際は右依頼に応じてその修繕をしたこと、しかるに右の如く佐藤が一旦原告方の依頼による修繕を断つたことを知つた原告の二男七五三野秀は、これに立腹し、同日午後、右佐藤を屋外に呼び出してやにわに同人を道路上に殴ぐり倒し、ついで更に同日夜原告の長男山本進が外数名の者と共に右佐藤方に押しかけ、同人に対し、鍛治仕事に使う槌をふり上げて、「この野郎、」「殺してやる」等と申し向けて脅迫した上、同人の妻がわびたにも拘らず、いきなり同家座敷内に上つて同人を何一〇回となく殴る蹴る等の乱打暴行を加えたこと、そのため右佐藤は右暴行により全身打撲傷、頭部内出血の外、肋骨八本を骨折する等の重傷を負い、それから約一〇年を経過した昭和三六年四月当時においても未だ完全に治癒せず、引き続き医者に通つて治療を受けていること、なお前記修繕代金はその後結局その支払を受けていないこと、以上の事実が認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。しかして、右事実を前記三の(2) 、(ロ)に認定した事実とを併せ考えれば別紙第六記載の記事中、前記第一の四、(2) 、(ロ)及び(ハ)の事実を摘示した記事部分は、その主要な点において真実の証明があつたものといわなければならない。

(4)、前記第一の四、(2) 、(ニ)の事実を摘示した記事部分について

別紙第六記載の記事中、右事実を摘示した記事部分については、さきに一の(3) に認定した通りの事実関係がある以上、これ又その主要な点において真実の証明があつたものといわなければならない。

五、別紙第八記載の記事について、(但し、前記第一の五、(1) の事実を摘示した記事部分については暫く措く)

(1)、前記第一の五、(2) の事実を摘示した記事部分について

前顕乙第三一号証、証人宍倉靖(第一回)の証言により成立の認め得る乙第四四号証の四乃至一一、証人道村博(第一・三回)、同宍倉靖(第一回)、同野口幹の各証言及び弁論の全趣旨を綜合すると、昭和二七・八年頃、田井木材工業株式会社が千葉県安房郡下において山林の立木を買付けていたところ、栗原善雄は外数名又は弁護士木戸喜代一と共謀の上、右田井木材工業株式会社の買付けた立木を窃取し、又は不正に山林に対する仮処分命令を得て、右立木を不法に伐採・搬出しようとしたとの疑いで右木戸弁護士等と共に昭和三一年一月頃逮捕され、千葉地検において所謂山林乗取り事件として取調べを受けていたこと、及び右事件に関連し、原告が栗原から右立木を賍物であることの情を知りながら買受けた旨の賍物故買の疑いで同年二月初め頃逮捕されたことは認められるけれども、本件における全証拠によるも、原告が右栗原、木戸等の山林乗取り事件の首謀者であつたとのことを認め得る適確な証拠はない。よつて別紙第八記載の記事中、前記第一の五、(2) の事実を摘示した記事部分については、その真実の証明はないといわなければならない。

(2)、前記第一の五、(3) 、(イ)及び(ロ)の事実を摘示した記事部分について

前顕乙第一八号証乃至第二〇号証、同第二八・二九号証によれば、前記三の(2) 、(ヘ)に認定の如く原告は昭和二九年三月頃外車を購入しながら、関税、物品税を免がれるため、一年以上の長期間に亘つて正規の登録手続をせず、自己又は自己の息子名義で、西畑村役場(昭和二九年一〇月町村合併後は大多喜町役場)に試運転を理由とする内容虚偽の臨時運行の許可申請をして、その許可書(仮ナンバー)交付を受けていたところ、当時右役場の係員は、右申請の内容が虚偽であることを知りながら、日頃から些細なことに暴力を振い、何かにつけて横暴な振舞の多かつた原告乃至原告一家を恐れて、前記申請のあるままに不正に右臨時運行許可書の交付をしていたことが認められるところ、右事実に、前顕乙第三一・三二号証、証人宍倉靖の証言(第一回)により成立の認め得る乙第四四号証の一三、同第四七号証の二・三、証人道村博(第二・三回)、同宇野沢貞郎の各証言(但し、宇野沢貞郎の証言中後記信用しない部分は除く)を綜合すると、原告はもと前同様不正な手段により営業用自動車のナンバーの交付を受け、昭和三〇年頃その一部を斎藤エイ、新戸タカ、及びその他の者に有償で利用させ、他の地元民にはその営業をさせなかつたこと、ところで当時宇野沢貞郎が自家用自動車として届けていた自己の自動車を利用して附近の青果商の青果物を有償で運送し、右自動車を所謂営業用に使用したところ、同人はこれを理由に昭和三〇年頃、一ケ月間の運転停止処分を受けたこと、そして右宇野沢が運転停止処分を受けたのは、原告の告発に基くものであつて、当時原告は右宇野沢に対し、「営業したければ俺のところに頼みに来い」等と申し向けたこともあり、当時宇野沢は右原告の仕打にいたく立腹していたこと、以上の事実が認められ、右認定に反する宇野沢貞郎の証言及び原告本人尋問の結果(第一回)は信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば別紙第八記載の記事中、前記第一の五、(3) 、(イ)及び(ロ)の事実を摘示した記事部分は、真実の証明があつたものといわなければならない。

(3)、前記第一の五、(3) 、(ハ)の事実を摘示した記事部分について、

原告がかねてから西畑村附近の土木建築請負等をほとんど独占していたこと、又原告が土木建築の請負をなすに際し、不正に談合入札をしたことのあることについては、前記一の(1) 、(イ)及び(ハ)(別紙第一〇記載の犯罪事実二八参照)に認定した通りであるところ、前顕乙第三一号証、同第三六号証の二、成立に争いない乙第四三号証、証人宍倉靖の証言(第一回)により成立の認め得る乙第四四号証の二〇、証人道村博(第二・三回)、同宍倉靖(第一回)、同菊地孝(第二回)、同野口幹、同君塚功の各証言及び原告本人尋問の結果(第一・二回)(但し原告本人の供述中後記信用しない部分は除く)を綜合すると、原告は昭和二五・六年頃西畑村西畑中学校々舎の新築工事を請負い、その建築をしたこと、しかして右新築工事についてはその材料の一部が村から提供されたこと、ところで右建築工事は一部古材を使つた極めて不完全なものであつて、いたるところに工事の手落があり、そのために右新築校舎は、新築以来数年を出でずして、雨漏りがひどく嵐の日には窓がはずれて飛ぶ等の状況になつたので、野口幹が昭和二七年七月西畑村々長に就任以来前後三回に亘つて、大きな補修工事をしなければならなかつたこと、そこで右建築工事については不正があるとして当時村で相当問題になり、又昭和三一年二月、千葉地検で原告一家に対する一斉手入れを行つた後、同年三月右千葉地検の入戸野次席検事がわざわざ同中学校に赴き、その建築工事の状況を調べていること、なお原告は前記補修工事に際し、自らその工事の一部に関与し、相当の修繕代金を受けとつていること、以上の事実が認められ、右認定に反する証人小高艶三の証言及び原告本人尋問の結果(第一・二回)はたやすく信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば別紙第八記載の記事中、前記第一の五、(3) 、(ハ)の事実を摘示した記事部分については、前記不正建築の事実がある以上、材料を横流しした点につき証明がなくとも、なおその主要な点において真実の証明があつたものといわなければならない。

(4)、前記第一の五、(3) 、(ニ)の事実を摘示した記事部分について

(イ)、右事実を摘示した記事部分中、「原告は製材会社を経営していたが、その電気はほとんどメーター器をこわして盗電した」とある部分については、証人鈴木正雄の証言及び原告本人尋問の結果(第一回)によれば、原告がもと製材工場を経営していたことが認められ、又前顕乙第三一・三二号証中には、原告は右製材工場を営むにつき、盗電していた旨の記載があるが、右乙第三一・三二号証の記載のみからは、直ちに原告が右盗電をしていたものとは認め難く、他に右事実を認め得る適確な証拠はないから、この点については真実の証明がないものといわなければならない。

(ロ)、次に「原告の出荷する材木は、小湊鉄道中野駅の駅員をおどして優先的に荷を積ませ、他の材木は原告の許可なしに積み降しをさせなかつた」とある部分については、前記四の(2) に認定の通りの事実関係がある以上、右部分についてはその主要な点につき、真実の証明があつたものといわなければならない。

(5)、前記第一の五、(3) 、(ホ)の事実を摘示した記事部分について、

別紙第八記載の記事中、右事実を摘示した記事部分は、別紙第六記載の記事中、前記第一の四、(2) 、(ニ)の事実を摘示した記事部分と略々同一であるところ、右記事部分については、前記第三の四、(4) において述べた通り、同第三の一、(3) に認定の事実関係があるから、これ又その主要な点において真実の証明があつたものといわなければならない。

(6)、前記第一の五、(3) 、(ヘ)の事実を摘示した記事部分について

前顕乙第三一号証、同第三六号証の二、同第四四号証の四乃至一一、成立に争いない乙第四一号証の一乃至四証人道村博(第一乃至三回)、同宍倉靖(第一回)、同菊地孝(第一・二回)、同野口幹の各証言を綜合すると、野口幹は昭和二七年七月一三日以降同二九年九月二〇日迄西畑村々長の職にあつたこと、ところで当時栃木県方面に本社を有する田井木材工業株式会社が千葉県下において山林の立木を買付けていたところ、栗原善雄が右田井木材工業株式会社の買付けた立木を不法に伐採したとのことで、右田井木材と栗原との間に裁判上の紛争が生じたこと、そこで原告は右紛争事件を栗原に有利に解決すべく、右栗原が千葉県下において田井木材工業株式会社千葉県事業部を開設して立木買付けの仕事をしていたとの事実を証明する資料にするため、原告から昭和二九年六月一一日付で西畑村々長宛に「田井木材工業株式会社千葉県事業部が登録票の交付を受けている」旨の証明願(乙第四一号証の三)が提出され、これに基いて同村役場の係員が村長野口幹名義で「木材業者登録番号、千葉県第九九二号、登録年月日、昭和二八年二月一日、登録業者の住所氏名、栃木県塩谷郡五生村五生、田井木材工業株式会社営業所又は工場の位置、夷隅郡西畑村、業態の別、素材生産、販売業」なる証明書(乙第四一号証の四)を出したこと、ところが一方その後田井木材工業株式会社側から、当時田井木材工業株式会社千葉県事業部の開設届は現実に提出されておらず、かつ栗原善雄が現に右事業部で仕事をしていない旨の証明願が提出されたので、さきに原告の申請に基き、前記の如き証明書の出ていることを知らなかつた野口幹は、その頃右田井木材から出された証明願につき種々調査した結果、右事業部の開設届は西畑村役場に提出されておらず、かつ当時栗原善雄は西畑村に居住していないことが判明したので、前記田井木材工業株式会社の申請の趣旨に従つた村長野口幹名義の証明書を出したこと、ところがこれを知つた原告は村長野口幹が同じ事項につき内容の異なつた二通の証明書を出したと称してこれにいいがかりをつけ、右証明書問題につき、当時西畑村役場において直接野口幹を詰問し、激しい口調で同人に文句をいつたばかりでなく、この問題を当時自己と親しかつた村会議長乃至議員を通じて西畑村議会に持出し、同村議会において右証明書の問題をとり上げさせて野口幹の責任を激しく追究させたこと、そのため、野口幹は遂に同年九月二〇日、西畑村々長の職を辞するのやむなきに至つたこと、以上の事実が認められ、右認定に反する証人七五三野秀の証言及び原告本人尋問の結果(第一・二回)はたやすく信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば野口幹は右証明書問題に関し、原告の圧力によつて村長を辞任させられたものというべきであるから、別紙第八記載の記事中、前記第一の五、(3) 、(ヘ)の事実を摘示した記事部分は、その主要な点において真実の証明があつたものといわなければならない。

(7)、前記第一の五、(3) 、(ト)の事実を摘示した記事部分について

前顕乙第三一・三二号証、証人道村博(第二・三回)、同宍倉靖(第一・三回)、同菊地孝(第一・二回)、同常泉清、同君塚功の各証言を綜合すると、昭和二七年一月八日西畑村中野では所謂部落民による区長の選挙が行われたが、その際原告は自己の意に副わない常泉清が区長に選ばれることに反対し、その対立候補として自己の自由になる岩瀬喜平を推薦して立候補させたこと、ところが投票の結果は常泉清が区長に選ばれ、右岩瀬喜平は副区長に選ばれたこと、そこで原告は直ちに右岩瀬に副区長の辞表を出させて、区政の円満な運営を阻害し、又その後前記区長に選ばれた常泉清が一般区民から町会費を徴収しようとした際、原告は自己の子分である平田四郎こと全命祚をして、一般区民に対し「町会費など納める必要はない」といつて歩かせ、かつ既に一旦区民の納入した町会費さえも、わざわざ右常泉のところから取返えさせる等して常泉区長の職務の執行を妨害したこと、そのため右常泉は原告の右妨害行為により区長としての職責を果すことができなくなり、区長に就任以来わずか三ケ月余りで区長の職を辞するのやむなきに至つたことが認められ、右認定に反する原告本人尋問の結果(第一・二回)はたやすく信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば別紙第八記載の記事中、前記第一の五、(3) 、(ト)の事実を摘示した記事部分は、その真実の証明があつたものといわなければならない。

(8)、前記第一の五、(3) 、(チ)の事実を摘示した記事部分について

前顕乙第一号証の三、同第三一号証、同第三六号証の二、証人道村博(第三回)、同宍倉靖(第一回)、同野口幹の各証言を綜合すれば、野口幹はかねてから原告と不仲な関係にあつたところ、右野口幹は昭和二一年に行われた衆議院議員の総選挙に際し、これに立候補すべくその準備をしていたこと、ところが当時右野口幹は薪炭生産の連合会長をしており、木炭の出荷に関する仕事をしていたところから、右木炭の出荷に関連し、代金詐欺をしたとして、原告から右立候補届出の二〇日前頃告発され、そのために逮捕勾留されて、結局右総選挙に立候補することができなくなつたこと、しかして右告発にかかる詐欺については当時起訴されたが、右詐欺の嫌疑は、事実無根のことであるとして、無罪の判決があつたこと、以上の事実が認められ、右認定に反する証人小高艶三、同七五三野秀の各証言及び原告本人尋問の結果(第一回)はたやすく信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば別紙第八記載の記事中、前記第一の五、(3) 、(チ)の各事実を摘示した記事部分については、その真実の証明があつたものといわなければならない。

(9)、前記第一の五、(3) 、(リ)の事実を摘示した記事部分について

成立に争いない甲第三号証中、中央上部の「勝手に材木置物、製材所に作つている中野駅構内」との添書のある写真、同第五号証の二中、左上の「占領された上総中野駅前広場と農協倉庫」と添書のある写真、証人宍倉靖(第一回)の証言により成立の認め得る乙第四四号証の二二、前顕乙第三一号証、証人道村博(第二・三回)、同宍倉靖(第一・三回)、同菊地孝(第一・二回)、同鈴木正雄の各証言及び原告本人尋問の結果(第一回)(但し原告本人の供述中後記信用しない部分は除く)を綜合すると、もと小湊鉄道中野駅前に、西畑地区第二分団の消防小屋があつたところ、原告は右消防小屋の廻りに自己所有の材木を積んで事実上右消防小屋の使用を不能にしていたこと、そしてその後原告の発意により右消防小屋が取壊されて他に移転されるや、原告はその跡の敷地を自己の製材工場用敷地乃至材木置場に使用していたこと、右の外原告は前記甲第三号証、同第五号証の二中の写真にあるが如く、中野駅前にある農協倉庫の廻りにも多数の木材を立てかけて右建物を無断で自己の用途に使用し、又右中野駅前の構内広場にも、小湊鉄道と正規の土地使用契約を締結することなく、同鉄道及び右中野駅に全く無断で自己の材木を置き、又材木置場用の建物を建てて、右駅構内を自己のために使用していたことが認められ、右認定に反する原告本人尋問の結果(第一回)はたやすく信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば別紙第八記載の記事中、前記第一の五、(3) 、(リ)の事実を摘示した記事部分は、真実の証明があつたものといわなければならない。

(10)、前記第一の五、(3) 、(ヌ)の事実を摘示した記事部分について

原告本人尋問の結果(第一・二回)によれば、原告はもと原告所有の自動車を栗原善雄に有償で使用させていたことがあること、及び原告がその後昭和三〇年頃右栗原所有の家屋を約二〇万円で買受け、その代金の一部を右自動車の未払使用料と相殺したことがうかがわれるけれども、他に「原告が右栗原に対し『車代がかさんでいるから、すぐ払え』と脅し、同人所有の家屋を一万円足らずの車代のかたにまきあげた」との事実を認め得る証拠はない。したがつて別紙第八記載の記事中、前記第一の五、(3) 、(ヌ)の事実を摘示した記事部分については、その真実の証明はないものといわなければならない。

(11)、前記第一の五、(3) 、(ル)、(ヲ)、(ワ)、の各事実を摘示した記事部分について

別紙第八記載の記事中、前記第一の五、(3) 、(ル)の事実を摘示した記事部分については、前記第三の四、(3) において認定した事実関係があり、又同第一の五、(3) 、(ヲ)の事実を摘示した記事部分については、前記第三の一、(1) において認定した事実関係があり、更に同第一の五、(3) 、(ワ)の事実を摘示した記事部分については、前記第三の三、(3) において認定した事実関係があるから、右各記事部分については、さきに述べたと同一の理由により、それぞれその主要な点において真実の証明があつたものといわなければならない。

(12)、前記第一の五、(4) の事実を摘示した記事部分について

別紙第八記載の記事中、「うれし泣きの町民」なる標題の下に、昭和三一年二月二六日、千葉地検により潤間組の本拠即ち原告方の一斉手入れが行われ、その幹部が逮捕されたときの情況及びこれを知つた町民の表情、並びにその後に行われた町民大会の模様等を描写して報道することにより、前記第一の五、(4) の如き印象事実を与えた記事部分については、前記第三の三、(1) に認定の如き各事実が認められる以上、その描写記事としての表現方法において多少誇張的な修辞句を用いている点があるとしても、右第三の三、(1) に述べたと同一の理由により、記事全体としては、真実の証明があつたものといわなければならない。

六、次に原告の名誉を毀損する本件各記事中、さきに真実証明の有無の判断を留保した記事部分について以下に判断する。

(1)、別紙第四の一、及び同第五記載の各記事中、平田四郎こと全命祚及び植草繁夫を原告の代貸として報道することにより、前記第一の一、段、同第一の三、(2) の如く原告の名誉を毀損した記事部分について、

右記事部分については、前記第三の一、(1) 、(イ)乃至(ニ)に認定の各事実、殊に原告一家乃至原告を親分とする潤間組は暴力をほしいままにし、所謂暴力団としての一面を有していた事実、平田四郎こと全命祚は右原告方の子分のうちの首領格であり、又植草繁夫も原告方の子分であつて、右両名とも賭博を常習としていた事実、前記第三の三、(3) に認定の如く原告は戦後所謂博徒といわれていた大川徳太郎、始関健蔵、平田四郎こと全命祚、植草繁夫等を自己の配下に置き、原告方において賭博を開帳していた事実関係等がそれぞれ認められるから、右平田四郎こと全命祚、及び植草繁夫を原告の代貸として報道した前記記事部分はその主要な点において真実の証明があつたものといわなければならない。

(2)、別紙第四の一、及び同第五記載の各記事中、前記第一の一、(3) の事実を摘示した記事部分について

(イ)、証人宍倉靖(第一回)の証言により成立の認め得る乙第四四号証の三及び二八、証人道村博(第二回)の証言により成立の認め得る乙第五〇号証、証人道村博(第一乃至三回)、同宍倉靖(第一回)、同菊地孝(第一回)、同野口幹、同佐藤菊造、同山本進、同小高艶三、同斎藤万右衛門の各証言及び原告本人尋問の結果(第一・二回)(但し、山本進、小高艶三、斎藤万右衛門、原告本人の各供述中後記信用しない部分は除く)、並びに前記第三の一、(1) 、(2) 及び同四の(3) に認定の各事実を綜合すると、昭和三一年頃、斎藤万右衛門、沢甚右衛門は大多喜町の町会議員を小高艶三は千葉県会議員をそれぞれしており、又君塚寿之助、君塚角之助、麻生幾義、三上正巳、斎藤甚吾、野口実はいずれももと西畑村の村会議員をしていたこと、そしてこれ等の者及びその他当時の大多喜町々長尾本要三をはじめ、所謂町の有力者の多くは、原告方に出入りし原告とかねてから特に親密な関係にあつたこと、それ故に原告が前記の如く昭和三一年二月千葉地検に逮捕され、その後別紙第一〇記載の犯罪事実二五乃至二八の事実等につき、取調べを受けて起訴された後、同年五月頃保釈を許されて帰宅するや、直ちに右原告を慰ぐさめるため、前記斎藤万右衛門、斎藤甚吾、麻生幾義、三上正巳等原告と親しい間柄にあつた現町会議員、元村会議員等が発起人となり、大多喜町西畑中野駅前の鈴木屋旅館において、盛大な慰労会が開催され、これに前記原告と親交のあつた町長尾本要三をはじめ、元村議、その他町の有力者約一〇〇名が出席したこと又これより先原告はかつて昭和二四・五年頃、前記斎藤万右衛門の先代斎藤万寿夫から当時の西畑村々長や千葉県会議員に立候補すべく進められたことがあるし、又原告の息子山本進、七五三野秀等が前記第三の四、(3) に認定の如く佐藤菊造に重傷を負わせたことで大原簡易裁判所に起訴されるや、原告は前記小高艶三及び斎藤万右衛門の先代斎藤万寿夫らに依頼し、同人等を仲に立てて強引に示談したこと、及び前記第三の一、(2) に認定の如く原告が君塚功の所有地に一部侵入して家屋を建築しようとし、右君塚から抗議を申込まれるや、前記斎藤万右衛門や、尾本要三等を間に立てて自己の有利に右紛争の解決をはかつたこと、以上の各事実が認められる。

しかして以上認定の各事実並びに前記第三の五、(6) に認定の如く、原告は昭和二九年頃、当時の西畑村々長野口幹が発行した証明書問題に関し、自己の親しい村会議員等を通じ、村会において右野口幹の責任を追究せしめて結局同人を辞職させた事実、証人佐藤菊造の証言中に「かねてから西畑村における普通の人は、金持ちでも利口者でもほとんど原告になびいていた」旨の証言がある事実、その他証人道村博(第一乃至第三回)、同宍倉靖(第一・二回)、同菊地孝(第一回)、同野口幹の各証言を綜合すれば、原告はかねてから自己の居住する大多喜町(昭和二九年一〇月町村合併前は西畑村)の町会議員やもとの西畑村々会議員等地元の有力者と特に親しい関係を保ち、何かにつけてこれらの有力者を自己の有利に利用していた事実があつたものと認めるのが相当であつて、右認定に反する証人小高艶三、同斎藤万右衛門の各証言及び原告本人尋問の結果(第一・二回)はたやすく信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(ロ)、しかして右事実の外、前記第三の一、(1) に認定の如く原告を親分とする潤間組は暴力団としての一面を有していた事実、同第三の一、(3) に認定の如く原告が吉野万吉を告発するなどして同人に対するいやがらせ行為をした事実、別紙第一〇記載の犯罪事実一九の如く原告方の野口正芳が浅野中(仲)の営業を妨害した事実、同第三の一、(2) に認定の如く原告が君塚功所有の土地の一部を不法に侵奪した事実、同第三の五、(9) に認定の如く中野駅前の消防小屋に材木等を立てかけてその使用を不能にし、これが他に移転せられるや、その跡を自己の材木置場等に使用し、又中野駅構内及び農協倉庫の一部を不法に自己のために使用していた事実、同第三の三、(2) 、(ハ)及び(ニ)に認定の如く三山伸二及び佐藤菊造等に対する下請代金及び修繕代金の一部を暴力をもつて支払わなかつた事実、同第三の五、(6) に認定の如く西畑村々長野口幹の発行した証明書問題に関し、同人の責任を追究して村長を辞任するのやむなきに至らしめた事実、同第三の五、(7) に認定の如く区長常泉清を辞任するのやむなきに至らしめた事実、同第三の四、(2) に認定の如く中野駅員に暴力を振つて原告方の荷物の積み降ろしをさせていた事実、その他これ迄に認定した如く、原告乃至原告一家による数々の暴行、その他反社会的な行為のある事実を彼此綜合して考えれば、別紙第四の一及び同第五記載の各記事中、「原告は町議二名、前村議五名など有力者をかかえ、営業の妨害財産の横領などのほか、町当局や駅、消防などにも暴力をふるつて干渉した」旨の前記第一の一、(3) の事実を摘示した記事部分は、その主要な点において真実の証明があつたものといわなければならない。

(3)、別紙第四の一及び同第五記載の各記事中、前記第一の一、(1) 、(2) の事実を摘示した記事部分、並びに別紙第五記載の記事中、前記第一の三、(1) の事実を摘示した記事部分について

(イ)、(i)これ迄に前記第三の一乃至五及び同六の(1) 、(2) においてそれぞれ認定し、又述べたすべての事実関係(但し第三の五、(1) 、(4) の(イ)、及び(10)の部分は除く)を彼此綜合し、更にこの外、(ii)前顕乙第二号証の七によれば、もと原告方において働いていた福島正一が別紙第一〇記載の犯罪事実三の傷害を受けて原告方をやめ、その後小湊鉄道のバスの運転手として働いていたところ、原告方から小湊鉄道に対し、「自分のところをとび出した者を使うのはけしからん」と文句を云つたため、右福島はわずか三ケ月で右小湊鉄道をやめざるを得なかつたこと、又同人がその後東京に職を求めて転出し、西畑村役場でその移動証明を受けようとしたところ、同役場では「原告の許しがなければ出せない」といつて一応これを拒否したことが認められること、(iii )前顕乙第三号証の一五によれば、原告の三男山本良は、昭和三一年二月二九日、千葉地検検事米山昭の取調べに対し、「私の家は潤間組といつて元の西畑村中野を中心として、土木建築や運送業を営み、若衆も沢山使つております。こういつた仕事ですから家で使つている若衆連も乱暴したりして近所の人に迷惑をかけることが多く、近所の人々もそれ等をとがめるとかえつてあとで仕返しをされては大変だと大ていのことは默つている様です。私も――上総中野に帰ると変につまらないことで人を殴つたりするのは、この附近には家(原告)で使つている連中が沢山いて、附近の人達におそれられているので、私が少し位のことをしても、外の人はたいていうつかり仕返しをしたらあとがこわいと、大ていのことはがまんして大目にみてくれるからです――」と述べていることが認められること、(iv)又前顕乙第二〇号証によれば、原告の二男七五三野秀は、昭和三一年三月六日、千葉地検検事米田昭の取調べに対し、前記第三の三、(2) 、(ヘ)及び同五、(2) に認定の如く原告が不正に仮ナンバーの交付を受けていたことに関連し、「近所の人も大体知つていた様です。誰も文句を云いに来たり、非難したりする人はありませんでした。今考えてみますと私の家は中野という人口の非常に少ない交通の不便なところに何一〇年と住んでいて土建や運送業をやつており、勢がよすぎてとかく人に迷惑をかけがちな若い衆も幾人か場合によつては一〇数名以上も雇つており、これ等の者の行動から、もしうかつに私の家のやつていることを非難したりしたら、あとで仕返しをされるのではないかと恐れて何も云えなかつたのだろうと思います――」と述べていることが認められること、等以上(i)乃至(iv)の諸点と証人道村博(第一乃至第三回)、同宍倉靖(第一・二回)の各証言を併せ考えれば、原告はその事業を営むために呼称していた潤間組の名称の下に、自己の息子や平田四郎こと全命祚、植草繁夫その他自己の使用人等数一〇名からなる一つの暴力団を組織してその親分となつていたこと、そして原告及び原告一家の者は右潤間組の勢力を背景に附近の人々や、小湊鉄道中野駅、西畑村役場等に対し、ほしいままに暴力を振つて横車を押し、或る面においては、いわば旧西畑村を暴力によつて支配していたといわれてもやむを得ないような状況にあつたものと認めるのが相当であり、又前記第三の一、(1) 及び(3) 乃至(6) に認定の各事実、同三の(1) 、(イ)、(ロ)に認定の各事実等を綜合すれば、当時警察も右原告方となれあいになり、原告方の私兵化されていたといわれてもやむを得ない事情にあつたものといわなければならない。そうだとすれば別紙第四の一、及び同第五記載の各記事中、前記第一の一、(1) 及び同三の(1) の各事実を摘示した記事部分については、その真実の証明があつたものといわなければならない。

(ロ)、次に原告が昭和の初め頃、西畑村に居を構え、その後潤間組なる名称の下に、常時二〇名前後の人夫を使用し、多いときには五〇名位の人夫を使用して個人経営による土木建築請負業を、又市原通運株式会社なる所謂個人会社を設立して会社組織による運輸・運送の事業を、右西畑村においてそれぞれほとんど独占的に営んでいたこと、平田四郎こと全命祚及び植草繁夫は暴力を擅にしていた原告方の子分であつて、いずれも賭博を常習とし、かつ右植草繁夫は賭博をはじめとして、業務上横領、傷害、詐欺等多数の前科を有していたこと、その他原告方の使用人であつた野口正芳、同鳥居(井)一雄はいずれも前科があつたこと、以上の如き各事実についてはいずれも前記第三の一、(1) に認定したとおりであり、右事実に前記第三の六、(3) 、(イ)に認定し、又述べた各事実及び同第三の三、(3) に認定の各事実を綜合して考えれば、別紙第四の一、及び同第五記載の各記事中、前記第一の一、(2) の事実を摘示した記事部分も又、その真実の証明があつたものといわなければならない。

(4)、別紙第四の二記載の記事中、前記第一の二、(1) の事実を摘示した記事部分について、

右記事部分のうち、第一の二、(1) 、(ロ)の「新しい駅員はかれらから必ず理由のない鉄拳を浴びせられ『いうことを聞く』と誓わされた」との点については、前記第三の四、(2) に認定の事実関係があり、同(ハ)の給料を請求した代償も暴力である」との点については前記第三の三、(2) 、(イ)乃至(ホ)に認定の各事実関係があり、又同(ニ)の「しかも警察はみてみぬふりをしている場合が多いこと」との点については、前記第三の一、(1) 及び(3) 乃至(6) 、並びに同第三の三、(1) 、(イ)、(ロ)に認定の各事実関係がある。そして更に同(イ)の「大多喜町西畑では潤間組の暴力がいままで法律であつた」とか、同(ホ)の「これらの暴力行為が日常化され、なかば正当化され、政治や事業に利用されているところに問題がある」との点については、前記第三の六、(3) 、(イ)に述べた事実の外、これ迄に述べた原告乃至原告一家の数々の暴行・傷害及びその他の反社会的な行為(前記第三の一乃至五及び同六、(2) に認定の各事実参照)のすべてを綜合して考えれば、原告乃至原告を親分とする潤間組には、右「暴力行為が日常化され、なかば正当化され、政治や事業に利用されていた」といわれるような事実関係があり、又当時「大多喜町西畑では潤間組の暴力が法律であつた」といわれてもやむを得ない情況にあつたものというべきである。そうだとすれば別紙第四の二記載の記事中、前記第一の二、(1) の事実を摘示した部分もその主要な点において真実の証明があつたものというべきである。

(5)、別紙第八記載の記事中、前記第一の五、(1) の事実を摘示した記事部分について

(イ)、右記事部分中「原告が終戦前後物資のない時代に県土木関係者や検察庁関係者を次々に招待、食糧や燃料を贈つて歓心を買つた」との点については、証人道村博の証言(第三回)中、右事実に副う証言はたやすく信用できず、他にこれを認め得る適確な証拠はない。

(ロ)、しかしながら右以外の記事部分については、前記第三の六、(2) 乃至(4) に述べた各事実関係並びに同第三の一、(1) 及び(3) 乃至(6) 、同第三の三、(1) 、(2) 、同第三の五、(6) 乃至(8) に認定の各事実関係がある以上、その主要な点につき、すべて真実の証明があつたものといわなければならない。

そうだとすれば別紙第八記載の記事中、前記第一の五、(1) の事実を摘示した記事部分については、右(イ)の点につき真実証明がなくとも、なお右記事部分全体としては真実の証明があつたものと解すべきである。

よつて原告の名誉を毀損するところの原告が親分となつて潤間組なる暴力団を組織し、その力をもつて町を支配し、かつ賭博を常習としていたこと等を中心として記述された本件各記事は、別紙第八記載の記事のうち、前記第一の五、(2) の事実、同(3) の(ニ)のうち盗電の事実、同(3) の(ヌ)の事実を各摘示した記事部分を除くその余の記事部分について、すべて真実の証明があつたものといわなければならない。

第四、そこで次に被告会社の取材記者及び編集担当者等が、右真実の証明のなかつた記事部分につき、これを真実と信じ、かつそう信ずるにつき正当の理由があつたか否かについて判断するに、成立に争いない甲第一号証の一、同第二・三号証、同第五号証の二、乙第四二号証、同第四三号証中、本件各記事に関係ある部分の各写真、証人宍倉靖の証言(第一回)により成立の認め得る前顕乙第三一号証、同第四四号証の一乃至三一、同第四五号証の一乃至四、同第四六号証の一乃至一〇、同第四七号証の一乃至三、同第四八号証の一乃至六、同第四九号証の一乃至五、証人道村博(第一乃至第三回)、同宍倉靖(第一乃至第三回)並びに前記第三の三、(1) 、(イ)及び同五、(1) に認定の各事実を綜合すると、被告会社千葉支局勤務の取材記者道村博、同宍倉靖等は、昭和三一年二月頃、当時前記第三の五、(1) に認定の如く栗原善雄及び弁護士木戸喜代一の両名が、田井木材工業株式会社の買付けた山林の立木を窃取し、又はこれを不法に伐採・搬出しようとしたとの疑いで千葉地検に逮捕され、所謂山林乗取り事件として取調べを受けていた事件につき取材するため、千葉地検に赴いた際、偶々同地検の入戸野次席検事から、「同地検で右事件に関連し、原告を賍物故買の疑いで逮捕して取調べたところ、参考人の供述や、投書によつて、右事件以外に、原告及び原告を親分とする潤間組が大多喜町西畑(旧西畑村)で暴力をほしいままにし、地元民がこれに苦しめられていること等がわかつた、」旨の情報を得たこと、そこで右道村博、宍倉靖は同じく被告会社千葉支局勤務の取材記者白木東洋及び被告会社大原通信局勤務の柿沼某記者等と共に、右原告及び原告を親分とする潤間組の暴力行為関係の事件を徹底的に調べ、これを取材して新聞紙上等に報道しようと考え、その後道村博等四名が単独又は数名で半月乃至一ケ月近くの間に前後数回に亘り、右現地の大多喜町西畑に赴いたこと、そして右地元民の元村長野口幹をはじめ菊地孝、常泉清、市原二郎、駒塚太郎吉、吉野喜久蔵、佐藤菊造、大野隆、林賀三、鈴木正雄、宇野沢貞郎、君塚功、君塚寿之助、関本長十郎、桐谷長平、その他多数の地元民に会つて、原告及び原告を親分とする潤間組の暴力行為その他数々の反社会的行為を右地元民から直接聞き、又現地の役場、郵便局、小湊鉄道中野駅、西畑中学校等にも赴いてその情況を実際に見聞し、かつ必要な写真を撮る等して、本件各記事に掲載した事実を取材したこと、又それと同時に千葉地検でも右原告等の暴力事件につき多数の参考人を取調べていたので、同地検と密接な連絡をとり同地検からも適宜右事実の取材をしたこと、そして右取材した結果を、その都度乙第四四号証の一乃至三一、同第四五号証の一乃至四、同第四六号証の一乃至一〇、同第四七号証の一乃至三、同第四八号証の一乃至六、同第四九号証の一乃至五の如く逐一メモし、更に乙第三一号証の表を作る等してこれを整理したこと、その結果右道村博外三名の取材記者等は、別紙第八記載の記事中、前記第一の五、(2) の事実、同(3) 、(ニ)の盗電の事実、同(3) の(ヌ)の事実は勿論のこと、本件各記事に掲載した事実関係はすべて真実であると信じ、これを被告会社発行の毎日新聞及びサンデー毎日紙上に報道すべく右各記事の原稿を作成して被告会社の東京本社に送稿し、同本社の編集担当者等も又右送稿された原稿を真実と信じてそのままこれを採用し、これに必要な見出しを付して編集した結果、本件各記事を掲載した毎日新聞及びサンデー毎日が発行・販売されるに至つたこと、以上の事実が認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。しかして右事実の外、別紙第八記載の記事中、前記第一の五、(2) の事実、同(3) 、(ニ)の盗電の事実、同(ヌ)の事実を除くその余の本件各記事については、いずれもその主要な点において真実の証明があること、又右第一の五、(2) の事実、同(3) の(ニ)の盗電の事実、同(ヌ)の事実関係についても、前記第三の五、(1) 、(4) 及び(10)に各記載の如き事実関係のあることまで認められること等を綜合すれば、本件各記事を取材した被告会社の道村博外三名の取材記者及びこれを編集した被告会社の編集担当者等は、いずれも右取材・編集にあたり、別紙第八記載の記事中、その真実の証明のない前記第一の五、(2) の事実、同(3) 、(ニ)の盗電の事実、及び同(3) 、(ヌ)の事実についても、これをすべて真実と信じ、かつ右真実と信ずるにつき相当の理由があつたものというべきである。

第五、しかして前段(前記第四)認定の事実及び証人道村博(第一乃至第三回)、同宍倉靖(第一乃至第三回)の各証言を綜合すれば、右被告会社の道村博外三名の取材記者及び被告会社の編集担当者等は、いずれも公共の利害に関する本件各記事につき、公益を図る目的でこれを取材し、編集したことが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

そうだとすれば、被告会社は原告個人の名誉を毀損する本件各記事を、被告会社発行の毎日新聞及びサンデー毎日に掲載したことにより、不法行為の責任はこれを負わないものといわなければならない。

よつて原告の本訴請求はその余の点につき判断するまでもなくすべて失当であるからこれを棄却し、訴訟費用につき民事訴訟法第八九条を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 猪俣幸一 後藤勇 辻忠雄)

別紙第一

「謝罪公告(一)」

第一名誉回復のために新聞紙に掲載を要求する内容その一

つくられた「西畑の暴力」

かたよつた情報をそのまま取材

昭和三十一年二月二十六日本紙朝刊第七面に「暴力の町手入れ、きよう・千葉大多喜潤間組に」、同日千葉版に「オレが法律の潤間組、明るみに出た大多喜の暴力団、警察もみてみぬふりか」、同月二十七日付朝刊千葉版に「明るみに出た西畑の暴力」とそれぞれの大見出しのもとに報道した記事は極めて事実と違つており、潤間組社長山本茂さんの名誉と信用を傷つけるところが多かつたので、詳しく調べた結果にもとづいて、これを訂正する。

二月二十六日の朝刊の各記事は山本さん一家が強盗、暴行、脅迫の数々の犯罪を犯したように記述しているが、真実はそのような容疑は全然ないことが判明した。

また二月二十七日の記事の中で、山本茂さん方が捜索をされ、その息子さん達が逮捕状を執行されたことについて、町の人が「お蔭様で、これで明るくなります」とか、小湊線上総中野駅の駅員が「思わず喚声をあげ」て喜んだということはなく、ただ山本さんに反対している一部の町民が、そういいふらしただけである。その他山本さん一家に苦しめられたというような記事はそれぞれ個人的なかかり合いから偶然に生じたことであり、既に事件も古いことで、裁判事件としても、町のごたごたとしてもとつくにきまりがついており、本紙が報道した当時問題になつていたことではなかつた。

第二掲載の方法

(イ) 紙面の位置

朝刊千葉版トツプ

(ロ) 記事の体裁

(大見出し)

「つくられた西畑の暴力」(特号活字四段)

かたよつた情報をそのまま取材(初号活字四段)

(ハ) 原告方の営業所の写真(横三糎、縦四段)

別紙第二

「謝罪公告(二)」

第一名誉回復のために新聞紙に掲載を要求する内容その二

千葉の「暴力の巣」はうそ

県土建業界に信用ある潤間組

昭和三十一年二月二十六日付本紙夕刊に千葉の「暴力の巣」に手入と題して千葉県夷隅郡大多喜町西畑の潤間組(うるま組)社長山本茂さん方の家宅捜索をなし、その長男山本進、次男七五三野(しめの)秀、三男山本良さんと植草繁夫さんの四名を逮捕、平田四郎こと全命祚さんに対する逮捕状は同人病気のため執行を留保された旨の記事を掲げ、当時の捜索の状況、潤間組の事務所ならびに店内の模様などを報道しあたかも潤間組が「暴力の巣」であるかのような記事を掲載したが、その後調査の結果、事実は著しく違つていて、これがため山本茂さんおよびその他の関係者の名誉を傷つけるところが多かつたのでその訂正をする。

サイレンを鳴らして

なだれ込まなかつた

まず「町のホツとした表情」の記事は、大変に潤色をしたもので、「武装警官が同家を取り巻きサイレンを鳴らし、捜索隊が同家の中になだれ込んだ」というようなことはなく被疑者を自動車で連行する際に制限速度超過のための警笛を吹鳴したに過ぎない。

常設バクチ場はない

つぎに「事務所裏の奥まつた押入の中に壁の一部を押すと壁が開いてその奥から二階に上る階段が現われ、その階段の上り口も普通の押入になつている。それを開けると六畳の間がある」というのは全く事実でなく、そのような仕掛をした建物はない。これは倉庫の上を二階にし、外階段から二階に出入する様にした建物を、取材記者がよく調べずに書いたものである。したがつて「これが常設バクチ場だと隊員はあきれ」た事実はなかつたものである。

山本さんは

村の功労者

「容疑の実例」と題する記事も既に数年前に話のすんでいるものであるか、ないしは一、二の人が噂をしたにすぎないことで、当時そんな容疑は認められなかつた。

「警察ともなれあい」の記事は、千葉地検が特捜本部を設けて内偵を進めていたということ以外は、ことごとく事実に反しており、潤間組はまじめな土建業者としてその地方の信用を博し、学校建築や道路橋梁の請負工事については何れもよい成績をあげ、公共事業にも卒先して協力し各方面から多数の感謝状をうけており、この記事に書いたような博徒の子分をもつているとか、それによつて勢力を張り、町民を脅かしていたというようなことは認められない。

第二掲載の方法

(イ) 紙面の位置

夕刊三面(六頁建の場合は五面)トツプ

(ロ) 記事の体裁

(大見出し)

千葉の「暴力の巣」はうそ(五段地紋に特号G活字白抜き)

県土建業界に信用ある潤間組(初号活字四段抜き)

(小見出し)全部二号一段

(ハ) 原告の写真(横七糎、縦三段)

別紙第三

「謝罪公告(三)」

第一名誉回復のためにサンデー毎日に掲載を要求する内容

公共へ奉仕の二十年

立志伝中の人・うるま組・山本茂氏

昭和三十二年三月十八日付本誌に「″オレが法律だ″の二十年、無法男に泣かされた大多喜町」と題する記事は、千葉県大多喜町西畑の土建業者潤間組、山本茂さんの事件につき興味本位の読物として書いたものであつたが、これにはたいへんな事実のまちがいがあることが判明した。

山本さん一家をはじめ、そこに名前を掲げた人々の名誉と信用を傷つけることが多かつたので、つぎにこれを訂正する。

人夫頭からの成功者

山本茂さんは藍綬表章を拝受した千葉県土建業界の功労者潤間四郎八氏=市原郡五井町=の片腕となつて働いてきた人で、今から二十年ばかり前そののれんをわけて貰つて、うるま組という名のもとに、前記大多喜町西畑で、土建業を営んで来たものである。

はじめはごくささやかな資本で近所の小さな工事の請負から始めたのであるが、仕事の仕ぶりが堅実で、性来義侠心にも富んでいるところから、町や村のためにもよく力をつくしたので、忽ち信用もできて、次第に県下の大きな請負工事もするようになつた。

しかもその仕事は専ら三人の男の子(長男山本進、次男七五三野秀、三男良)と共に親子水入らずで経営し、記事を出した当時は人夫四、五十人を使つていた。

山本さんがこの大多喜町西畑で事業を始めたころは、この附近はまだもの淋しい山間の村落であつたが、国鉄が上総中野駅まで通じ、そこが小湊線の終点となつているので、この地方の貨物は悉くここで集散されることになつた。それがため町もみちがえるように発展し、山本さんの事業もこの町の発展と運命をともにしたのである。

ひたすら公共への奉仕

山本さん一家が他町村からこの町に来てここまで成功するには、なみ大低の努力ではなかつたが、山本さんは「俺が安全にめしが食えるようになつたのは、この土地の旦那方のお蔭だから」と家族にも言い聞かせ、「この御恩を返すためには公共のために働かねばならない」と言つて、治安協会、交通安全協会とか消防団、または学校施設等に、労力の提供や金の寄附を惜まず、近所の人々も「山本さんのまねはとてもできない」

と感心されるほどであつた。

成功をねたむ一部の町民

こんなわけで、山本さんは役場、警察、地方事務所、県庁との接触も多く、関係筋の人々は山本さんの人柄や奇篤な行為を知つて自然に親しい出入もふえてきたのである。ところが、町の一部には「山本は警察や役所となれあつてウマくやつている」とかげ口をつく者もできてきた。

山本茂さんは一面気短かな性質でもあつたので一部に利害関係から反対者が生じたのもやむを得なかつた。こんなことは、それでなくても、他所(よそ)者が成功した場合にその地元でよく見られる悲しむべき事例である。

博徒を更生に導く

三月十八日号の記事(二二頁-二三頁)の中で、山本さんがイカサマ賭博の常習者で、自宅裏には一見出入口のない中二階をつくり、これにイカサマ賭博師を住まわせ、駐在巡査を張り番にし、賭博を開帳したように書いてあるが、これは全く事実無根である。

かつて、この地方には博徒が流れ込んできた事実はあるが、そんな場合には山本さんはいつでもその不心得をさとし、正業につくように世話をやいたり、遠方の者には旅費をやつて国もとに帰したものであつた。

山本さんの情けによつて、今まで世間から爪はじきにされていた博徒が立派に更生した例は決して少くないという。

議会への勧誘を断る

こんなわけで、山本さんはその人望にくわえて、町でも中以上の財をなしているので、はたから町議会、県議会への立候補を勧められることもしばしばあるが、こんなとき山本さんは「俺は学問のない土方の親方だ。そんなことはとてもできない。土建屋はあくまで土建屋として、みんなのためになるように働かして下さい」といつて、他の人をその候補にあげ、持ち前の仁侠からその選挙を応援するのが常であつた。

前掲の本誌記事では「山本一家」という暴力団組織か博徒の結合かがあるような印象を与えているが、こんなものは全然存在しないことで、山本さん一家の大多喜町における二十年の生活は、まじめで力強い一人の男の苦斗の歴史であり、ここには公共への奉仕が事業を成功に導く土建業者の輝かしい生き方が示されている。

第二掲載の方法

(イ) 掲載箇所

サンデー毎日二十頁以降

(ロ) 記事の体裁

(大見出し)

公共への奉仕の二十年(初号G活字三段)

立志伝中の人うるま組山本茂氏(一号活字三段)

(小見出)

全部四号G活字一段

(ハ) 原告の写真

縦横各四糎

別紙第四の一

「記事(一)」

(昭和三一年二月二六日付毎日新聞朝刊第七面の記事)

暴力の町手入れ

きよう千葉・大多喜潤間組に

千葉発 千葉地検では千葉県夷隅郡大多喜町西畑潤間(うるま)組=社長山本茂(五九)既逮捕=の幹部長男山本進(三〇)二男七五三野秀(二七)三男山本良(二五)はじめ代貸平田四郎こと朝鮮人全命祚(五四)同植草繁夫(四二)の五名の逮捕状を千葉地裁に請求、きよう二十六日未明千葉県警本部の応援で武装警官五十名を動員、同組の根拠千葉県夷隅郡大多喜町西畑を急襲一斉手入れを行う。

同地検では千葉弁護士会所属木戸喜代一弁護士の山林乗取り事件を捜査中に逮捕した潤間組社長前科一犯山本茂(五九)の取調べにより、山本らが十数年間暴力によつて一つの村(人口五千名)を完全に支配し、警察もその″私兵化″されているという事実が判明、同地検で入戸野次席検事を主任に特捜本部を設けて極秘に内偵を進めていたものである。

山本は昭和十五年ごろ千葉県夷隅郡大多喜町西畑(旧西畑村)に子分五十余名を持つ潤間組を組織する一方、市原通運株式会社を設立して、附近の土木、建築、運輸、運送の事業を独占し、博徒植草繁夫(四二)をはじめ房総の屋根といわれる西畑に流れ込んでくる博徒や前科者を引入れ平田四郎(五四)を代貸に隠然たる勢力を張つている。

これらの暴力団のほかに町議二名、前村議五名など有力者をかかえ営業の妨害、財産の横領などのほか町当局や、駅、消防などにも暴力をふるつて干渉、千葉地検の捜査により現在までに判明したものだけでも詐欺事件三件(公正証書不実記載を含む)窃盗事件三件、強盗傷人四件、傷害六件、恐かつ強迫二十八件を数えている。

しかも地元警察となれあい、放任されて無警察状態になり、町民から、″ウルマの親分″と恐れられていた。

◇財産侵害の一例

昨年八月七日、同町中野商工会長、町議君塚功さん(四一)所有の土地にナワを張り家を建てようとした。君塚さんが山本家を訪れてたゞすと「二十年前お前のおやじがおれの土地まで侵入したのだ。お前はこんど商工会で映画館を作る運動をしてこつちの計画のじやまをしている」と脅した。交渉してもきかずそのまま工事を進め、「これでも最初の境界線より三尺も引いて建ててやつた」と階下だけ三尺引き下げた奇妙な二階建を建築、完全に土地をまきあげている。

◇警察との結びつき〈1〉駐在巡査や大多喜署刑事の転勤の際山本は必ず奉賀帳を作りこれを子分にもたせて村内を歩かせ、強制割当でせん別を集めている。

二十一年ごろ同村吉野屋(吉野万吉さん)で断つたところ駐在巡査をつれて店内のツルハシ、スコツプなどを禁制品だといつて持出したのをはじめ二十五、六年にかけ、せん別供出を断つたら強迫されたものが数件ある。

〈2〉三十年暮大原署の脱走事件捜査の際、山本の代貸平田四郎の家を大多喜署の刑事の案内で大原署の刑事数名が捜査本部にし、平田から供応をうけた。

大多喜署員はたびたび山本らの家で酒をのみ、事件発生の場合山本の家を取調室に使つている。

別紙第四の二

「記事(二)」

(昭和三一年二月二六日付毎日新聞朝刊千葉版の記事)

″オレが法律″の潤間組

明るみに出た大多喜の暴力団

警察もみてみぬふりか

夷隅郡大多喜町西畑では潤間組の暴力がいままで″法律″だつた。新らしい駅員は、かれらから必ず理由のない鉄けんを浴びせられ「いうことを聞く」ことを誓わせられた。給料を請求した代償も暴力である。しかも警察は見て見ぬふりをしている場合が多いのだ。

「これらの暴力行為が日常化され、なかば正当化され、政治や事業に利用されているところに問題がある」と当局ではいつている。現在まで千葉地検の捜査で次のような暴力行為が判明している。なお、同地検では後難を恐れずどんな暴力でも届けてほしいと町民に要望している。

◇代貸平田四郎こと全命祚(五〇)=親分山本が逮捕され、参考人として同町中野鮮魚商浅野仲さん(六〇)が地検の取調をうけたが、このことについて悪事の発見をおそれ、去る二十二日夜十時ごろ浅野さんの長男晟さん(二七)を自宅に呼びつけ、子分ら数名で囲み、″警察は我々の手で押えてあるのだ。よけいなことを話すとたゞではおかない″と脅した。この為め浅野さんはおびえて、毒でも飲んで死にたいといつている。

◇植草繁夫(四二)=〈1〉去月三十日ごろ同町西畑郵便局外勤、井沢喜平治氏(三〇)に対し″オレが刑務所に入つているときの身内に対する面倒が悪かつた″といんねんをつけて脅し、しよう油(一斗)一タルをかつ取している〈2〉二十九年五月ごろ、内妻渡辺勝枝(二四)の義兄渡辺某(三五)が″植草が遊んで食つていて困る″と話していたのを立ち聞きして、同夜渡辺氏を木刀で殴る突くの暴行を働き、ひん死の重傷を負わせている。

◇山本進(三二)=親分山本の長男=〈1〉二十八年夏ごろ同潤間組で自動車運転手として雇つていた同町平塚苅米利行さん(三五)が二年越し給料を払つてくれないので、要求したところ裏にまわれと自宅裏の庭につれ込み、丸太棒で殴打、重傷を与えている。

サツは平気とタンカ

◇七五三野秀(二八)=親分山本の二男、母方に養子=二十七年八月ごろ雇人の始関健蔵さん(五〇)が給料をくれないので生活に困り馬五頭を買い、バクロウを始めたが、二頭を盗み出し六万三千円で他え売却してしまつた。

◇山本良(二五)=親分山本の三男=二十八年五月ごろ、実兄進と同様同潤間組の雇い運転手同町及川、福島某(三二)が数年越しの不払い給料の要求をしたところ自宅裏庭えつれこんで、丸た棒で殴打、重傷を負わせた。

大多喜の野口こと野口政義(二九)=本年正月二日午後二時ごろ同町中野鮮魚商浅野仲さん(六〇)方に子分二名をつれて入りタコをとつて喰つた。そこで浅野さんが″正月早々で困る″というと″金を出せばいいだろう、サツえ届けろサツはおれらが握つているのだ″とタンカを切つて店内の魚箱を外にほうり出した。なお目撃者の証言によると、同町大多喜署西畑駐在、井桁巡査は平田の家で飲酒、見ぬふりをしていたといつている。

別紙第五

「記事(三)」

(昭和三一年二月二六日附毎日新聞夕刊第三面の記事)

千葉の暴力の巣に手入れ

幹部四名を捕う

「力」で町を支配する潤間組

〔千葉発〕 千葉地検では二十六日未明千葉県警本部の武装警官六十名を動員″暴力の巣″といわれる千葉県夷隅郡大多喜町西畑の潤間組(うるまぐみ)=社長山本茂、千葉刑務所に収容中=の本部を急襲、社長長男同組幹部山本進(三〇)二男七五三野(しめの)秀(二七)三男山本良(二四)および植草繁夫(三三)の四名を逮捕、代貸平田四郎こと朝鮮人全命祚(五四)に対する逮捕状は同人が病気のため執行を留保、関係者の自宅、事務所の捜索を行い、ゴボウ剣、短刀など多数の関係書類を押収した。

山本進らの身柄は一たん大多喜署に留置、同日午後千葉刑務所に収容される。

町はホツとした表情

この朝六時五十分千葉地検江口検事の指揮で県警本部捜査課の私服刑事完全武装した機動隊一個小隊六十名がジープ二台、パトカー一台、乗用車一台に分乗、西畑に到着、潤間組本部前にそのまま乗りつけた。

武装警官が同家を取り巻きサイレンを鳴らして捜索隊が家の中になだれ込んだ。思いがけない警官の急襲に幹部たちはみんな色を失い長男の山本進はじめ抵抗一つなくみんなふてくされた態度だ。

居間にはテレビあり、台所には電気冷蔵庫、電気洗たく機があり、暴力でしぼりあげた財産一千万円のうわさを裏付けている。

捜索は事務所から住宅、物置まで徹底的に行われたが、事務所裏の奥まつた押入の中に壁の一部を押すと壁が開いてその奥から二階に上る階段が現われ、その階段の上り口も普通の押入になつている。それを開けると六畳の間がある。つまりこの二階は外見からは階段がみえない仕組みになつていた。「これが常設バクチ場だ」と隊員はあきれている。

地検の手入れに「山本のところがやられているぞ」と町の人々の表情には驚きと喜びの入りまじつた色が走る。「やつと手をつけてくれましたか」と一人の老人がほつとしたようにつぶやいていた。午前十時捜索は無事終了した。

=容疑の一例=

◇財産の侵害 昨年八月七日、同町中野商工会長、町議君塚功さん(四一)所有の土地にナワを張り家を建てようとした。君塚さんが山本宅を訪れてたゞすと「二十年前お前のおやじがおれの土地まで侵入したのだ。お前はこんど商工会で映画館を作る運動してこつちの計画の邪魔をしている」とおどした。交渉しても聞かずそのまま工事を進め「これでも最初の境界線より三尺も引いて建ててやつた」と階下だけ三尺引下げ奇妙な二階家を建て、完全に土地をまき上げた。

◇警察との結びつき〈1〉駐在巡査や大多喜署刑事の転勤の際山本は必ず奉賀帳を作りこれを子分にもたせて村内を歩かせ、強制割当でせん別を集めている。二十一年ごろ同村吉野屋(吉野万吉さん)で断つたところ駐在巡査をつれて店内のツルハシ、スコツプなど禁制品だといつて持出したのをはじめ、二十五、六年ごろ、せん別供出を断つたため強迫されたものが数件ある。

〈2〉三十年暮大原署の脱走事件捜査の際、山本の代貸平田四郎の家を大多喜署の刑事の案内で大原署の刑事数名が捜査本部にし、平田から供応を受けた。大多喜署員はたびたび山本らの家で酒をのみ、事件発生の場合山本の家を取調室に使つている。

警察ともなれあい

千葉地検では千葉弁護士会所属木戸喜代一弁護士の山林乗取り事件を捜査中に逮捕した潤間組社長前科一犯山本茂の取調べにより、山本らが十数年間暴力によつて一つの村(人口五千名)を完全に支配し警察もその″私設化″されているという事実が判明したので特捜本部を設けて内偵を進めていたもの。

山本は昭和十五年ごろ千葉県夷隅郡大多喜町西畑(旧西畑村)に子分五十余名を持つ潤間組を組織する一方、市原通運株式会社を設立して付近の土木、建築、運輸、運送の事業を独占し、博徒植草繁夫(四二)をはじめ房総の屋根といわれる西畑に流れ込んで来る博徒や前科者を引入れ、全を代貸に隠然たる勢力を張つている。これらのほかに町議二名、前村議五名など有力者をかかえ、営業の妨害、財産の横領など町や駅、消防などにも暴力をふるつて干渉、現在までに判明したものだけでも詐欺三件(公正証書不実記載を含む)窃盗事件三件、強盗傷人四件、傷害六件恐かつ強迫二十八件を数えている。しかも地元警察となれあい、放任される無警察状態になり町民から″ウルマの親分″と恐れられていた。

別紙第六

「記事(四)」

(昭和三一年二月二七日附毎日新聞朝刊第八面「千葉版」の記事)

明るみに出た西畑の暴力

廃人にされたカジ屋

″占領″されてきた中野駅

暴力の街、西畑の人々は二代、三代のくもりをやつと払いのけた表情に返つた。しかしまだ恐怖の記憶が去つたわけではない。「お蔭様で、これで明るくなります」とささやく老婆も、子分たちの姿を見て急に口をつぐみ、そつと潤間組の暴状を訴えてくれる。青年も「私から聞いたことは秘密にして下さい」と念を押す。

西畑はなお、第二、第三の手入れを必要とするようだ。

小湊線上総中野駅も山本一家の最大の被害者。二十六日朝山本一家が武装警官の手で急襲されるや、駅員たちは思わず歓声を挙げた。昭和三年開設以来、山本の暴力に苦しめ抜かれて来たのだ。山本は駅が出来て以来「暴力団通運」を開業駅員をおどし運搬から積込みまで運送店の仕事を全部やらせていた。石を積んだ貨車が到着したところ、二週間も荷を降さず駅員が行つて頼むと″馬鹿野郎″とおどし、とうとう少数の駅員だけで石を降させたこともあつたという。

同町中野鍛治屋佐藤菊造さん(五七)は最大の被害者の一人。彼は生々しい当時の記憶を思い出して次のように語る。

わたしがこの土地で鍛治屋を開業したのが大正十三年です山本は四年ほどして同様この土地で土建屋を始めた。仕事の関係上、山本からつねに自動車部分品、ツルハシ、シヤベルなどずいぶん修繕物の注文を受けた。出来上つて代金を請求すると「いますぐ払えない」とつつぱねられ、きげんのよいときで半額支払う始末だつた。請求に行くと裏に廻れというが、その裏には人夫たちがよつてたかつて制裁を加える場所がある。すでに幾人もここで半死半生にあわされた話を聞いていたので逃げ帰り、いつも泣き寝入りしている始末だつた。

二十六年八月ごろ「ちよつとこれを至急修繕してくれ」といつて来た。

すでに何回となく修繕代金を踏倒され、しかも急ぎの仕事を山ほど持つていたので一応断つた。するとしばらくして二男の山本秀が店に現われ「ためにならねエ」といきなり殴りつけ道路上に転がされた「カンニンしてくれ」と両手をついてあやまつたが聞き入れられず、今度は長男の山本進が来て金ドコを振り上げ″殺してやる″といきまいた。

妻はそれをひつたくつたが、なぐる、打つ、けるの連続。すきを見て逃走し二里ほどの山中をさまよい歩いた。四、五日弓木の親類に隠れていてから家に帰り医者にみてもらつたら、ろつ骨三本が折れ、ろく膜炎を起していると診断された。同年十月、山本は当時の野口幹村長、小高艶三県議らを仲に立て示談してくれと申込んで来た。私は町民のためにも今後山本一家が二度と暴力を振わないという約束でこれに応じたその折八万円の見舞金をくれたが、いままでの被害を考えると、そんなのはものの数ではない。その後私は一年間寝たきりで、ようやく起き上つても仕事は出来ず廃人同様で、いまもつて医者通いをしている始末です。

また同所中野二八八の一雑貨商吉野万吉さん(六五)もこの一人。

いま万吉さんは中風で寝込み、長男の仁男さん(三四)が代つて経営している。昭和十八年吉野さんの家では百貨店を開いたが、統制物資隠匿だとひんぴんとして山本が警察に密告ありもしないものをなんども家宅捜査され、なんでもない瀬戸物類から、山本組で使うためにつるはしまで押収されるという悲運にあつた。このため吉野さんの家ではとうとうこの年店を閉めてしまつた。結局山本が警察をまるめこんでやらしたと現在まで泣き寝入りしていた。この寝ていた万吉さんも山本一家の手入れの報を聞いて涙を流して喜んだという。

別紙第七

「記事(五)」

(昭和三一年六月六日附毎日新聞朝刊第一〇面千葉版の記事)

地検と警察との対立えぐる

(大多喜の暴力事件)

(前略)

お礼参りの実例

大多喜町の潤間組の暴力事件で、千葉地検に逮捕された山本一家社長山本茂以下幹部四名が五月上旬保釈後、最近お礼参りが始まつたと地元民から衆議院法務委員会へ訴えたが当局はこれをいかに扱つているのか。

地元民の訴えたお礼参りの主なものは

〈1〉 山本社長が保釈されて直後の五月上旬、山本方で開かれた宴会に出席した関係者四、五名が酒に酔つて夜半町中をどなり歩き、治安維持会の幹部呉服店常泉清さん、卯沢百貨店の陳列台を道路に投げ飛ばし、さらに中野郵便局で職員をたたき起して暴言をはいた。

〈2〉 四月二十八日潤間組丸通止めの荷物が中野駅に到着、そのうちの一個を駅長が持主と了解のうえ手渡したところ、夕刻幹部の七五三野秀(二七)が来て「荷物が一個足りないがどうした」とつめ寄り駅長を出せとおどした。その際「江戸のカタキは長崎でうつ。あまくみると承知しない」とおどした。

〈3〉 五月二十七日幹部の平田四郎が市原郡加茂村で遠田富太郎さん(三四)に因縁をつけ殴打した。

〈4〉 五月十日山本家の前を通つた同町飲食店駒塚太郎吉さんが山本茂に呼びとめられ「いろいろ世話になつた。まだお礼もしてないが」といわれ、また息子の英男さんも同様四月二十日七五三野秀にいやみをいわれた。

大多喜署ではこのほど捜査した結果

〈1〉については果して山本一家のものであるかどうかはつきりしない

〈2〉は駅員の不注意から起つた

〈3〉は単純暴行ですでに示談となつている

〈4〉は当人に直接いつたのではなくいずれも事件とすることはむづかしい。

その他についても事実と相当異つた点が多い

との見解をとつている。

しかしこうしたことがたとえ法的に事件が成立しないにしても、すでに長年、山本一家の暴力におびえ切つている町民にとつては「世話になつた」といわれれば身の縮む思いであるのが実情である。

別紙第八

「記事(六)」

第一(昭和三一年三月一八日附サンデー毎日第二二-三頁の記事)

カット ″オレが法律だ″の二十年

無法男に泣かされた大多喜町

流れものの人夫頭

千葉県大多喜町西畑は県庁所在地の千葉市から二十三里、房総の屋根といわれる山の中にある。附近には養老の澄んだ溪谷があり、山に包まれた景勝には珍らしい小鳥が四季を告げる。西畑はこんな静かな環境の中に千二百世帯六千人の人々が、木材と炭焼を主産業に生活する小さな部落だ。

潤間組の社長山本茂がここに根城をかまえたのはもう二十年もの昔だ。

藍綬褒章まで拝受した県土建業界の功労者、潤間四郎八氏=市原郡五井町=からノレンをわけてもらつた山本は、西畑地先の県道工事の人夫頭として、この土地に流れ込み、そのまま居ついた。

昭和十三年、貴族院議員選挙に土地の政治家、斎藤万寿雄氏のために、当落をかけた散票を売り込んで当選させたのに恩を売り、付近一帯に根強い政治的地盤を持つ夷隅以文会に食入つた。昭和十五年強い政治的背景のもとに子分五十余名をようする潤間組を組織、まづ市原、夷隅、君津三郡の土木事業を独占する一方、市原通運株式会社を設立して、運輸事業をも独占、次第に勢力を張つていた。そして金と暴力で数名の村会議員をかかえて議会を牛耳り、終戦前後物資のない時代には、県土木関係者はもちろん、検察庁関係者や警察関係者をも次々に招待、食糧や燃料をみやげに贈つて歓心を買い、事業から政治に野望をひろげた。

傍若無人の潤間組

昭和二十一年、地元大多喜署の治安協会長、交通安全協会長に就任するに及んで彼の地位と権力は絶対のものとなつた。つねに″オレは法律の潤間だ″とうそぶき、法と暴力によつて部落民の営業妨害、財産の横領をはじめ町当局、駅、消防にもその手をのばし、まつたく権力をほしいままにしたのだ。

千葉県安房郡下の山林を舞台に、二十八年初めごろから大掛りな立木乗つとり事件があるのを探知した千葉地検では本年一月十日、弁護士木戸喜代一、山林ブローカー栗原善雄、鈴木英一を逮捕、取調べたところ、ワキ役とばかり思つていた山本茂が、実は主謀者であり、しかもその他にも同様、法律を悪用した悪事が次々とあらわれて来た。地検では二月二日、山本を逮捕した。

いつたん山本が捕つたという話を聞くや、地元西畑の人々は連日のようにこつそり検察庁を訪ね、″泣かされた二十年″を訴えた。

それらの話はどれも想像も及ばないほど傍若無人を極めたものだつた。「今どきそんなところが実在するものか」と半信半疑でいた検事たちも実地調査して驚いた。

悪事の数々暴露す

潤間組の悪事は数限りないが一例をあげて見よう。

暴力による事業の独占

〈1〉 市原通運株式会社を設立して運輸、運送をにぎつた山本は陸運事務所に取り入り、架空の営業自動車ナンバー数枚を作り、これを月二万円から三万円で貸し、他の部落民たちには営業を許さず、たまたま自家用ナンバーで営業していた宇野沢定郎さんを告発して、二ケ月運転停止処分にし「営業したければオレのところえ頼みに来い」とおどした。

〈2〉 暴力と金にものをいわせ、村内の土木建築の事業を入札もなく独占、二十六年西畑中学校建築の際には、村から渡した建築用材を他に流し、さらに建築用材として村の神社、寺院などから強制的に供出させた立木も他に流し、自分の倉庫にあつた古材木で手を抜いた工事をした。このため数年足らずしてガタガタになり、補修にせまられると、これも自分で請負い、建築当時の工費とほぼ同額の補修費をとつた。

〈3〉 また山本は製材会社を経営、電気はほとんどメーター器をこわして盗電し出荷する材木は、小湊鉄道中野駅の駅員をおどして優先的に荷を積み込ませ、他の材木は山本の許可がなくては積みおろしをさせなかつた。

〈4〉 付近の雑貨商吉野万吉さん(六五)も、物資統制時代に山本が駐在巡査を使つてなんども家宅捜索を行わせ、なんでもない瀬戸物類から潤間組で使うためのツルハシまで押収させた。このため吉野さんはその年、店を廃業してしまつた。

暴力による町政の干渉

〈1〉 山林乗つとり事件の際、山林所有者である水戸市田井木材株式会社千葉県営業所が西畑にあるという虚偽の証明書を千葉地裁一宮支部に提出し、これがバレて田井木材の弁護士が当時の村長、野口幹氏から「その営業所はない」という証明書をとつたところ、山本はこれをくつがえすため当時の関助役をおどし「確かにある」というニセ証明書をとり、さらに「同じ役場から二通の異つた証明書が出たのはどうしたことか、一切の責任は村長にある」と村長に詰腹をきらせてしまつた。

〈2〉 二十七年一月部落民の選挙によつて呉服商、常泉清さんが区長に当選した。山本が推薦していた某が落選し、ことごとに常泉さんの邪魔をし、たまたま町会費を徴収した時などは、すでに納入してしまつた一般町民に「おれが納めるなといつたのに、なぜ納めた」とおどかし、このため再び区長のところから取り返させた。

このため常泉さんはわずか三か月足らずで区長を辞した。

これは常泉さんが山本のいうなりに動かぬ男であつたからだといわれている。

〈3〉 二十一年の総選挙のとき、警察に無根の詐欺事件を告発して、反対党の野口幹候補を立候補寸前で逮捕させ、野口氏は二十数日勾留されたが、結局容疑なしで選挙後釈放されている。

暴力による不動産乗つとり

〈1〉 中野駅前に西畑地区、第二分団消防小屋があつたが、この乗つとりをはかり材木を積み上げて使用不能にしてしまい、外へ消防小屋を作らせ移転させてしまつた。山本はすぐその小屋をぶち壊し、製材工場を作つて占拠していた。このほか彼は駅構内、農協倉庫等を私有化して使つている。

〈2〉 自分の一味にして使つていた山林ブローカー栗原に「家のものも同様だ。車代はいらない」と山林の買付けにタクシーを使わせ、あげくの果てに「車代がかさんでいる。すぐ払え」とおどし、栗原所有の家屋を一万円足らずの車代のかたにまきあげてしまつた。

強盗、傷害、恐喝、脅迫事件

〈1〉 二十六年八月ごろ付近の鍛治屋佐藤菊造さん(五七)は仕事の関係で山本から自動車の部品、ツルハシなどの修繕ものの注文をうけたが、代金をいつも満足に支払わず、請求すると、裏庭に連れ込み丸太棒で半死半生になぐつた。このため佐藤さんは肋骨三本を折つて、いまだに五年越しの廃人同様の日を送つている。

〈2〉 このほか息子の進(三〇)秀(二八)良(二五)をはじめ子分の朝鮮人、平田四郎こと全命祚(五四)植草繁夫(四二)ら一味による暴力行為は実に数限りない。

イカサマ賭博の常習

山本は自宅裏に、下の押入から二階の押入へと階段をかけ、一見、出入口のない中二階を作り、これを常設賭博場として二十三年頃からイカサマ師始関建造や、千葉の博徒大川徳太郎を使い、駐在巡査を張番にし、付近に集つて来る山林ブローカーや部落民からイカサマ金をまきあげていた。

うれし泣きの町民

ついに、いつせい手入の朝はきた。

小湊鉄道上総中野駅の直前にある本拠潤間組でもやつと人が起き出す気配がしていた。二十六日午前六時五十分、突然鋭いサイレンの音がこの人口六千という小さな部落に響いた。千葉地検江口検事の指揮する武装警官隊五十名が到着したのだ。たちまち警官隊は、目指す潤間組幹部の家になだれ込んだ。一人ずつ幹部たちは大多喜署に護送されて行つた。砂を巻いて走る警察のジープは、これでもか、これでもかというように潤間組を威迫していた。

地検の手入と同時に、町の人々はいつせいに外にとび出した。

「山本の家がやられている」

どの顔にもホツトしたような色が浮かんでいた。

この日の夕刊が町に配達されると大さわぎで奪い合い、ボロボロにしてしまつたというほどだつた。

一夜明けた二十七日、午後二時から中野映画館で町民大会が開かれた会場には定刻前から続々町民が押しかけた。「山本にはずいぶんいじめられましたなあ」老人も青年も、男も女もみんな興奮した顔をならべて語り合つた。″暴力一掃″″明るい町建設″の決議文が読み上げられたときには、みな手が赤くはれ上るほど拍手を送つていた。どの顔にもどの顔にもうれし泣きの涙が光つていた。

千葉地検でも″二度と彼らのはびこるのを許さない″と岡原検事正以下本腰を入れて、山本一家の一掃にかかつている。私兵化したというウワサの立つた大多喜署も人事を一新するという。

(千葉支局道村博、宍倉靖、白木東洋)

別紙第一〇

「犯罪事実」

一、山本進、山本良の両名は、かつて原告方に自動車運転手として雇われていた押田芳方が昭和二六年六月頃、四〇余日にわたる夜間長距離輸送の疲れから居眠り運転をして右原告方所有の貨物自動車を田に落してその一部を破損させたことから、これに対する私的制裁をおそれるの余り右原告方を無断退職したことに対し、憤まんの念を抱いていたところ、同年七月五日頃右両名共謀の上、千葉県夷隅郡大多喜町相の山地先県道上において、偶々同所を通行中の高橋一雄の運転する貨物自動車を停車させ、同自動車の助手席に同乗していた右押田芳方に対し、各自手拳をもつて同人の頭部、顔面部及び背部等を散々殴打し、或は足蹴にする等の暴行を加え、よつて同人に上門歯一本折損及び全治約二ケ月を要する頭部、顔面部、背部、両上肢の各打撲傷を負わせた。(乙第二号証の五、六号証の九乃至一二、同第一〇号証、証人山本進の証言を各参照)

二、山本進は昭和二六年八月頃、前記大多喜町葛藤一六三番地旅館天竜荘こと林賀三方において、酔余同家女中をからかつてうまく行かなかつたことに憤激し、同家の硝子戸や大火鉢を壊す等の乱暴を始め、これを右林に制止されるや、一層いきりたち、手拳をもつて同人の顔面を数回殴打し、更に左腕をねじ上げる等の暴行を加え、よつて同人に全治約一〇日間を要する顔面打撲傷等の傷害を負わせた。(乙第三号証の一三、同第一〇号証、証人山本進の証言各参照)

三、山本進は昭和二七年二月頃前記大多喜町中野二八一番地の三の同人方において、当時原告方に雇われていた自動車運転者福島正一が同日仕事先の現場で酒を御馳走になつて帰つてきたところ、これを原告にとがめられたので、同僚に対し、「出先で一杯位酒を飲んで来てしかられるようなら働き甲斐がないから辞めさせて貰いたい」旨の不平をもらしたのを聞きとがめ、即座に同人に対し「辞めるなら辞めてみろ、そのままの身体ではおかないぞ」というなり、その場に有り合わせの棒をもつて同人の頭部を滅多打ちにし、更に鍬の金属部(但し刃でない部分を)もつて腰部を四・五回殴打する等の暴行を加え、よつて同人に全治約一五日を要する腰部打撲傷等の傷害を負わせた。(乙第二号証の七、八、同第一〇号証、証人山本進の証言参照)

四、山本良は昭和二六年七月五日頃前記相の山地先県道上で折柄同所を進行中の前記一記載の高橋一雄の運転する貨物自動車を停車させた上、同人を前記一記載の如き事情から憤まんの情を抱いていた前記押田芳方と誤認して、矢庭に手拳をもつて右高橋の顔面部を数回殴打し、よつて同人に全治約一ケ月を要する右顔面部打撲傷を負わせた。(乙第二号証の五、六、同号証の九乃至一二、同第一〇号証参照)

五、山本良は同年一〇月初旬頃、前記大多喜町大田代(当時老川村大田代)一二二九番地の一所在の老川村役場前天竜組自動車々庫内において、材木業新戸新司方の自動車運転者をしていた蓮池義雄に対し、その約一週間前に、同人の運転する自動車と道路上ですれ違つた際における自動車の避譲が充分でなかつた旨の因縁をつけ、「この間は大目にみたが余り生意気だ」、と云いつつ、矢庭に殴ぐりかかり、更にその場に居合わせた中村文雄の制止も聞かず、手拳をもつて右蓮池の顔面部を五、六回強打してその場に殴り倒した上、二、三回腰部を足蹴りにする等の暴行を加え、よつて同人に全治約二、三日を要する顔面打撲症を負わせた。(乙第二号証の四、同第一〇号証参照)

六、山本良は昭和三〇年八月上旬頃、前記大多喜町中野所在小湊鉄道上総中野駅構内において、同駅員大野隆に対し、「水を持つて来い」と申し向けたところ、同人から「今汲んでないから待つてくれ」といわれたことに因縁をつけ、約一時間後、同人に「一寸来てくれ」と申し向けて同人を同駅構内保管庫内に連行した上、矢庭に手拳をもつてその顔面部を殴打し、かつ右股を足蹴りにする等の暴行を加えた。(乙第二号証の三、同第三号証の一五、同第一〇号証、証人大野隆の証言参照)

七、山本良は昭和三〇年八月頃、右中野駅附近に駐車中の小湊鉄道株式会社所有のバスの運転台に立入り、ハンドルを動かしていたずらしていたのを、同バスの運転者吉野国太郎からとがめられたことに憤慨し、矢庭に同人の背中を足蹴りにしたばかりでなく、更に逃げる同人を追つて同駅事務室附近に至り、同所において傍にいた駅員の制止も聞かず、平手をもつて右吉野の顔面部を殴打し、もつて同人に暴行を加えた。(乙第三号証の一四、一五、同第一〇号証参照)

八、平田四郎こと全命祚は、昭和三一年二月頃、原告がたまたま千葉刑務所に勾留されて捜査官憲の取り調べを受けるようになり、その成行を案じていた折柄、当時右原告方の情報連絡の役をつとめていた植草繁夫から「正月のタコのこと(後記一七乃至一九の犯罪事実のこと)で浅野魚屋から千葉の検察庁に投書が行つている」旨聞知するや、大いに憂慮しかつ憤激し、ここに右浅野父子を呼びつけて脅迫しようと企て

(1)  同年二月二一日午後一時半頃、自己の内妻蔭山とくに命じて前記大多喜町中野二九七番地の自宅に右浅野仲の長男浅野晟を呼びつけ、同人に向つて、「お前の家の馬鹿おやじが投書したんだろう、そうでなければお前の家に聞きに行つた人がいるんだろう、その人に話したのではないか、今度の問題はなまやさしいことではない。お前がうそつぽ語れば、手前の家のおやじを一〇日でも二〇日でも豚箱に入れてやる」旨どなりつけ、もつてその父浅野中(仲)の身体や自由等に対し、危害を加うべきことをもつて右浅野晟を脅迫し、

(2)  同日午後五時半頃、右浅野晟を通じて前記自宅に呼びつけたその父浅野中(仲)に対し「山本の旦那が本当は帰れるのに誰かお前の家のタコのことで投書したため帰れなくなつてしまつた。お前が投書したんだらう、それともお前の家に誰か様子を聞きに来た人に教えてやつたんだらう、わかればそのままにしておかない」旨怒鳴りつけ、もつてその生命や身体、財産等に対し、危害を加うべきことをもつて同人を脅迫した。(乙第三号証の六乃至八、同号証の一二、同第六号証の八の三及び四、同第一一号証参照)

九、平田四郎こと全命祚は法定の除外事由がないのに、同年二月二六日、前記自宅において刃渡り約三八糎の銃剣一振を所持していた。(乙第三号証の九、同第一一号証参照)

一〇、平田四郎こと全命祚は、かつて東田富太郎が、右全命祚の知人の経営する飲食店小沢屋に酔余暴れて迷惑をかけたことを聞知し、かねてから同人に不快の念を抱えていたところ、昭和三一年五月二九日、千葉県市原郡加茂村二四番地佐々木{胞衣}治方前道路上において、矢庭に右同人の顔面を平手で殴打する等の暴行を加えた。(乙第三号証の三、同第一一号証参照)

一一、藤平正男は昭和三一年一月二二日頃、前記大多喜町猿稲所在の映画館大多喜館において、かねて顔見知りの大多喜高校生徒平野孝吉に対し、「帽子なんか冠つていて何んだ」と云いながら、矢庭に同人から学生帽を取り上げた上、「金を貸せ」と申し向けてこれを拒絶されるや、右帽子をガスストーブ内に入れようとしたため、同人がこれを取り返そうとしたところ、同人に対し「生意気だ俺に向う気か」と申し向け、手拳を以て同人の顔面を三、四回強打し、よつて右同人に全治迄約一週間を要する右顔面部打撲傷を負わせた。(乙第四号証の三、同第一二号証参照)

一二、藤平正男は昭和三一年一月二九日頃、前同町中野四三五番地飲食店見晴屋こと野口ユキ方店内廊下において、同店の客小林利雄に対し、些細なことから因縁をつけ、「表へ出ろ、殴つてやる」と申し向けた上、同人を座敷内に突き飛ばして暴行した。(乙第四号証の四、六、同第一二号証参照)

一三、藤平正男は、前同日、前記野口ユキ方六畳間において、同店の顧客清水幸太郎に対し、些細なことから因縁をつけ、矢庭に手拳で同人の顔面を二、三回殴打して、同人に全治約五日間を要する右腹部打撲傷を負わせた。(乙第四号証の五、六、同第一二号証参照)

一四、木下勉は昭和三〇年一〇月五日午後零時一〇分頃、酔余飲酒の目的をもつて、前記大多喜町大多喜二五四番地料理店南園こと島野政友方において、閉店して寝静まつていた同人を呼び起こしたが、同店でこれに応じなかつたので、同店入口の硝子戸を無理に押し開いて、同店舗内に故なく侵入した。(乙第一三号証参照)

一五、木下勉は昭和三一年一月二日、前記大多喜町中野四三五番地飲食店見晴屋こと野口ユキ方店内で小石川栄二と些細なことから口論した上、同店表道路上において、同人の顔面を右手拳で二、三回強打して同人を道路上に殴り倒し、更にゴム長靴をはいたまま、同人の肩部、腰部等を数回蹴飛ばし、又はふみつける等の暴行を加え、よつて同人に全治約一週間を要する左頭部打撲傷を負わせた。(乙第五号証の三、同第一三号証参照)

一六、野口正芳は、昭和三〇年一二月初旬頃の午後七時頃、前記大多喜町久保の大多喜郵便局前道路上において、折柄同所を通りかかつた大多喜タクシーの自動車運転者関三郎の運転する小型自動車の斜前方に右野口自からが飛び出してこれに衝突しそうになつたことに因縁をつけ、右自動車の運転台のドアの壊れた引手を後手に持ちつつにじり寄り、右関三郎に対し、「人にぶつつけておきながら、このまま行つて終うのか」とどなりつけ、まさに殴ぐらんばかりの気勢を示して、その生命、身体に危害を加うべきことをもつて同人を脅迫した。(乙第六号証の四、五、同第一四号証参照)

一七、野口正芳は、昭和三一年一月二日午後二時頃、前記大多喜町中野二六九番地鮮魚商浅野中方において、同人の長男晟に対し、「タコの足を一本くれ」と要求してこれを拒絶されるや、「金が欲しけりや、潤間に取りに来い」と申し向けて、矢庭に陳列台上のユデタコの足一本を取り上げ、同人から「そんな無茶なことをするなら駐在所に言つて行く、」と制止されても、「警察なんか丸めているから言つて行つてもどうにもならぬ」等と放言し、右要求に応じなければ、営業妨害、暴行等如何なる危害を加えるかも知れない態度を示して同人を困惑、畏怖せしめたあげく、同人をしてそのまま右ユデタコの足一本(時価約三〇円相当)を交付させてこれを喝取した。(乙第三号証の八(乙第六号証の八の一と同じ)、同六号証の六、七、同号証の八の二、同第一四号証参照)

一八、野口正芳は右犯行直後、前同所において、更に右浅野中に対し、「これをくれ」と申し向けて自ら右同人方のユデタコ一匹を手に持ち、右浅野中からその代金四八〇円を請求されても、これに応ぜず前同様の気勢を示し、同人をしてなお右代金の請求をつゞけるにおいては、営業妨害、暴行等如何なる危害を受けるかも知れないと困惑させたあげく、そのまま右ユデタコ一匹を交付させてこれを喝取した。(乙第三号証の八、同第六号証の六、七、同号証の八の二、同第一四号証参照)

一九、野口正芳は、右の如くしてタコ一匹を一旦持ち去つた後数名の仲間と共に再び該タコを持つて同店に引き返し、前記浅野中に対し、「こんなものいるものか」といいがかりをつけた上、「こんな店の鯖なんかたたきつけて売れないようにしてやる」とか、「出刃で切つてやる」とか大声でどなりながら、陳列品たる鯖五尾を掴んで店内に投げつける等の暴挙に出で、もつて威力を用いて同人の業務を妨害した。(乙第三号証の八、同第六号証の六、七、同号証の八の二、同第一四号証参照)

二〇、植草繁夫は、昭和二九年四月末頃、前記大多喜町中野所在の夷隅川端の水田において、渡辺勝枝の内縁の夫で、自己の義兄渡辺勲に対し、些細なことから因縁をつけ、やにわに同人の左腕等を木刀で殴打して暴行を加えた。(第七号証の八、一〇、同第一五号証参照)

二一、植草繁夫は、昭和三〇年一二月三一日頃、前記大多喜町中野二四八番地の自宅において、岡田医師の依頼により、渡辺よし子の医療費の請求に来た佐久間八雄に対し、「朝から借金取りに来るやつがあるか、」「病気をなおしもしないのに金を取りに来るとはとんでもない野郎だ」等と因縁をつけた上、手拳で同人の左耳上部を殴打して暴行した。(乙第七号証の一〇、同第一五号証)

二二、植草繁夫は昭和三一年一月二日頃、菊地孝が原告方の野口某から因縁をつけられて困つているのをみて、その仲裁に入り、右野口をとり静めたことに対し、右菊地がその後右お礼の挨拶に来なかつたとして同人に因縁をつけ同月四日頃前記大多喜町中野四八四番地の右菊地孝方において、同人に対し所携の長さ約四尺位の棍棒を示しながら「仕度をしろ勝負しろ」「俺に仲裁を頼んでおきながら何の挨拶もない、人を馬鹿にしている」等と申し向け、もつて凶器を示して同人の生命、身体等に危害を加うべき態度を示して同人を脅迫した。(乙第七号証の五及び一〇、同第一五号証参照)

二三、七五三野秀は、昭和二五年二月頃、千葉県夷隅郡総元村三又所在の大橋地先道路上において、もと原告方で自動車運転手として働き、その頃右原告方をやめた苅米利行が貨物自動車に乗つて通りかかつたのを認めるや、右自動車を停車させた上、右苅米に対し「用があるから降りろ」と申し向け、更に同人が右自動車から降りるや、「どうしてうちに来てくれないのか、二人でいい仕事をしているのだらう」と申し向けつつ、矢庭に手拳で同人の顔面部右眼附近を殴打し、よつて同人に対し全治一ケ月を要する右眼部打撲傷を負わせた。(乙第八号証の三同第一六号証参照)

二四、鳥居(井)一雄は昭和三〇年一二月中旬頃の午後七時頃前記大多喜町久保一三〇番地飲食店大安食堂こと峰崎大次郎方店内土間において、偶々同店に来合わせた客に因縁をつけたところ、同所に居合せた沢登寛明からたしなめられてこれに立腹し、いきなり同人に「何をこの野郎」と申し向けつつ、矢庭に手拳で同人の後頭部を殴打し、もつて同人に暴行を加えた。(乙第九号証の四、同第一七号証参照)

二五、原告及び七五三野秀は、アメリカ合衆国軍隊、同合衆国軍隊の公認調達機関、軍人用販売機関等右合衆国軍隊の構成員、軍属、これ等の者の家族及び契約者以外の者であるが、右原告及び七五三野秀の両名は共謀の上、昭和二九年三月一日東京都世田谷区附近のアメリカ合衆国陸軍の軍属であるガブスン・リー方において、同人が私用に供するため輸入した関税免除品であるダツチ一九五三年型乗用自動車一台を所定の許可を受けないで、代金一〇八万円で譲り受け、以て不正の行為により、これに対する関税二二万一一八四円及び物品税二三万二二四三円を逋脱した。(乙第一八号証乃至第二〇号証、同第二八、二九号証参照)

二六、原告は昭和二九年頃夷隅郡大原町(旧東海村)若山二三一番地の東海小学校校舎の新築工事を請負い、その工事の一部を三山伸二に下請けさせたところ、同年四月二四日頃、右東海小学校校庭において、右三山伸二方の大工職古谷文二に対し、同人が右工事に際し、材料を盗んだことがないのに、「お前等が材料を盗んだから思うように仕事が出来上らない」などと因縁をつけ、同人を両手で引張つて同校東側道路上に連行し、同所において矢庭に手拳で同人の顔面を数回殴打して暴行を加えた。(乙第二二号証、同第二四、二五号証、同第二八号証参照)

二七、原告は昭和二九年八月二一日頃、前記大多喜町二八一番地の三の自宅において、竹箒製造業多賀政雄に対し、同人が原告方の杉皮を盗んだことがないのに、「俺の杉皮を掻払つたろう」等と因縁をつけ、矢庭に手拳又は平手で以て同人の顔面を殴打して暴行を加えた。(乙第二三号証、同第二六、二七号証、同第二八号証参照)

二八、原告は中村彰、潤間文男、片岡工業株式会社、及び株式会社三枝組と共に、前記大多喜町小田代大田代地先老川橋架換工事の競争入札について、千葉県土木部よりこれが競争入札者として指名されたもので、土木建築の請負を営んでいたものであるが、昭和三一年一月二三日午前九時頃千葉市吾妻町一一番地所在旧千葉県建設会館階下の千葉県建設資材株式会社内において、公正な価格を害することを知りながら、不正の利益を得る目的を以て、他の競争入札者である中村彰、潤間文男、三枝益輝、並びに片岡工業株式会社の社員首藤孝等に対し、「今度の工事は自分の近所でもあるし、是非自分にやらせて貰いたい、自分は五六〇万円で入札する」旨申入れて懇請し、右中村彰はその申入れを容れ、右入札価格より高価に入札することを約し、同日午前一〇時頃、同市市場町千葉県庁土木部長室において入札の結果、原告に右申出額を以て落札させ、同日正午頃、同市吾妻町所在飲食店「新柳」で、原告より右談合の協力をしてくれた謝礼として右中村彰等四名の共同入札者に対し、金五万六〇〇〇円の所謂談合金を提供し、同人等各自が各一万四〇〇〇円づつの分配を受け、以て原告において、公正な価格を害し、不正の利益を得る目的で談合した。(乙第二八号証参照)

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